有岡城に幽閉された本当の経緯
『黒田家譜』によれば、官兵衛が有岡城に赴いたのは主君小寺政職の命令によるもので、しかもそれは政職の謀略であったという。政職は織田方から毛利方への寝返りを画策し、密かに村重と連絡をとっていたというのだ。
けれども、官兵衛の重臣である栗山利安が後年に記した覚書である『栗山卜庵覚書』には、「美濃守様(職隆)と荒木と無二の御知音ゆへ、信長様へ忠節を致、可然由被仰候て、如水様(官兵衛)を異見に被遣候へば、如水様を荒木取籠置候て、返し不申候」とある。すなわち、官兵衛は父職隆の意を受けて、村重の説得に赴いたが、叛意を固めていた村重は孝高を有岡城に幽閉したというのだ。こちらの方が真相に近いであろう。政職が官兵衛を罠にはめたという『黒田家譜』の記述は、結果的に官兵衛が主君である政職を裏切る形になったことを正当化するための潤色と考えられる。
竹中半兵衛との友情話は史実か
以下の有名な逸話も、『黒田家譜』が出所である。荒木村重が官兵衛を監禁していることを知らない信長は、官兵衛も村重の味方となって城中にたてこもったと誤解して激怒する。そして、官兵衛が織田家に人質として差し出していた嫡男松寿(のちの長政)を殺すよう、竹中半兵衛に命じた。半兵衛は信長を諫めるが、「信長公御憤深くして、諫を用ひ給はず」という状態だったので、やむなく半兵衛は、松寿を殺したと偽りの報告をし、密かに松寿を自身の本拠である美濃国不破郡岩手の菩提山城に匿った。半兵衛と官兵衛という秀吉の二人の「軍師」の友情を示す著名な挿話だが、いささか出来すぎにも思える。現実には織田信長は官兵衛不在の黒田家を信頼しており、信長が松寿を殺そうとしたという話は創作であろう。
天正7年11月、有岡城はついに開城した。だが、救出された孝高は「力よは(弱)り、足すくみて歩行かな(叶)はず」という衰弱状態だったという(『黒田家譜』巻1)。
小寺政職の家老から秀吉の与力へ
有岡城開城に前後して、織田方から毛利方に乗り換えていた小寺政職は危険を感じて御着城を出奔した。これによって播磨国衆としての小寺家は滅亡した。官兵衛の主君はいなくなったのである。
この時点まで、官兵衛はあくまで小寺政職の家老の一人にすぎず、羽柴秀吉のところに出向していたような形であった。だが、政職が出奔したことで官兵衛は独立を果たし、「黒田官兵衛」と名乗るようになった。主君の苗字である小寺から、元の苗字である黒田に戻ったのだ。

