“軍師エピソード”は、ほぼ美濃時代のもの
これを、病のせいで精彩を欠いていたと、好意的に解釈することもできる。しかし、もう一つ別の見方もできる。
半兵衛は、すでに時代遅れになっていたのではないかという見方だ。
「軍師・竹中半兵衛」として語られるエピソードを並べてみると、ほぼすべてが美濃時代のものだ。稲葉山城乗っ取り、龍興との局地戦での活躍。いずれも少数精鋭による奇襲・謀略戦である。半兵衛が最も輝ける舞台は、小さく、速く、鮮やかに動ける戦場だった。
ところが中国攻めに入ると、スケールが根本から違う。相手は毛利という西国最大の大大名。複数の戦線を同時に動かし、兵站を維持しながら長期戦を設計する戦争になる。局地的な謀略の天才が、そのまま大規模戦略の立案者にはなれなかったのではないか。
『信長公記』に名前が出てくるのはわずか3回
史料からは推測することしかできないが、別所氏との関係が拗れた結果、三木合戦に至ってしまったことだけを見ても、中国攻め以降の半兵衛は軍師として無能になっていたといえるだろう。
そもそも、この半兵衛という男は本当に「今孔明」「天才軍師」「義の智将」などと呼ばれるほどの人物だったのか。
少し立ち止まって考えてみよう。我々はどこで半兵衛=天才だと知ったのか? ……ほぼ創作物である。大河ドラマ、小説、マンガ……そういったものを通じて刷り込まれたイメージだ。
では史料はどう語っているのか。
『信長公記』で半兵衛の名前が出てくるのは、わずか3回。そして具体的な功績として記録されているのは、先述の西大寺八幡山城の件、これ一つだけである。天下統一を目指す織田家の一大事業を克明に記録した『信長公記』に、「天才軍師」がたった3回しか登場しない。しかも功績の記録は一件……これが「今孔明」の実像である。
これは諸葛孔明が『三国志演義』で空城の計や、赤壁での神算鬼謀の限りを尽くした天才軍師として演出されたのと同じ。実に、その天才ぶりは、江戸時代の軍記物や講談などの創作物によってはじまったものなのだ。

