信長→半兵衛「銀100両の褒美」

中国攻め以降、半兵衛はなにをしていたのか。史料を確認すると、その実績は驚くほど乏しい。もちろん『信長公記』をみると、確かに半兵衛はちゃんと働いている。1578年5月24日の記述には、こう記されている。

5月24日、竹中半兵衛申し上げ候の子細は、備前の内、八幡山の城主、御身方仕り候由、申し越し候。ご満足なされ、羽柴筑前秀吉かたへ、黄金百枚、ならびに竹中半兵衛に銀子百両下され、忝き次第にて、罷り帰り候なり(「信長公記」『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)。


筆者訳:5月24日、竹中半兵衛が(織田信長公に)申し上げたことの詳細は、備前国の内にある八幡山の城主が、こちら(織田方)の味方をしたいと申し出てきた、ということでした。(これをお聞きになった信長公は)大変満足され、羽柴筑前守秀吉の方へ黄金100枚を、また竹中半兵衛には銀100両を(褒美として)下さりました。大変ありがたいことで、半兵衛は退出いたしました。

“直家が算盤をはじいただけ”ではないか

そう、ドラマで描かれる直家の調略では確かに実績をあげている。

この備前八幡山城は、現在の岡山市東区西大寺にあった西大寺八幡山城のことだ。西大寺は吉井川の河口に位置し、瀬戸内海の船の交通と陸の交通を結ぶ要衝であり、毛利に属して備前を押さえる宇喜多直家の経済を支える町を持つ城であった。そんな城が信長にくだると申し出てきたのだから、喜んで褒美を与えるのは当たり前だ。

織田信長像
織田信長像 賛・跋。狩野元秀・筆(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons

でも、この後、直家が信長の側についたのは、半兵衛の報告から実に半年以上が経ってからだった。

しかも、八幡山城の調略がどれほど影響したかはわからない。直家が動いた理由は、毛利の輝元が翌年1月に予定していた上洛を突然断念したこと、そして信長から備前・美作の領有を確約されたことにある。半兵衛が糸を引いたというより、直家が自分の算盤をはじいて動いただけのようにもみえる。

つまり半兵衛は、まだ確定していない案件を「備前の城主が味方に」と信長に上申し、銀子百両の褒美を受け取ったのである。おまけに、信長陣営にとって「ついに備前が動いた!」と小躍りするほどの大事件として受け取られて太田牛一がわざわざ筆を執って記録するほどの「成果」になってしまっている。

ちょっといい加減ではないだろうか。わずかな兵力で稲葉山城を奪取、秀吉の三顧の礼を受けて軍師になるなど、天才軍師としての活躍が際立っている前半生に比べると精彩を欠いているようにみえてしまう。