謙信が死んだことの大きな意味
信長は多くの裏切りに遭った。徹底した実力主義や、きわめて冷徹な合理的判断のもとで、立場を失った人たちが裏切ったと思われる。そして、追い詰められて裏切るかどうか迷うような家臣や配下の武将、国衆たちにとって、上杉謙信は「勝算」を思い描ける希望だったはずである。
ところが、その謙信がいなくなってしまった。それは、織田家に敵対する勢力が天下一統を成し遂げる可能性が失われた瞬間だったといえる。
前述の別所長治は、それから2年近くのち、秀吉による「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めの末に滅ぼされた。謙信の急死から7カ月後の天正6年(1578)10月には、信長から摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)という要地をまかされていた荒木村重が、信長に疑念をいだかれたと思ってか、突然反旗をひるがえした。だが、もはや足利義昭や本願寺、毛利家の側についたところで、たいした力にはならなかった。
周知のように信長は、最後の最後まで家臣の裏切りに遭う。明智光秀に裏切られ、天正10年(1582)6月2日、本能寺に斃れる。だが、天下一統の事業は家臣の羽柴秀吉に引き継がれ、反信長勢力がそこに介入する余地は、すでにまったくなかった。それも、4年前に上杉謙信が急死したから、といえるだろう。


