足利義昭によって活発化した上杉謙信
その武将とは、いうまでもなく上杉謙信である。そもそも、柴田勝家が総大将の軍勢はなぜ北陸に向かったのか。それは謙信の活動が活発化していたからだった。天正4年(1576)4月、大坂本願寺(大阪市中央区)の法主、顕如と和睦したことで、謙信はかなり自由に動けるようになっていた。
裏で糸を引いていたのは、信長と決別し、毛利輝元の庇護下にいた足利義昭だった。鞆の浦(広島県福山市)に移っていた義昭は、いまなお征夷大将軍で、各地の大名に御内書を送って信長包囲網を築こうとしていた。謙信のもとにも天正3年(1575)12月2日付で御内書を送り、武田氏や北条氏、本願寺と和睦し、信長討伐に協力するように求めている。
それが謙信と顕如の和睦につながり、その後、顕如は北陸方面の一向一揆に、謙信に協力するように指示している。
越後の謙信は、以前から越中(富山県)、能登(石川県北部)、加賀(同南部)への進出をねらっていたが、この地域は一向一揆の勢力が根強く、激しい抵抗に遭って侵攻はうまくいかなかった。ところが、これまで強敵だった一向一揆は、いまや謙信にとってむしろ頼れる存在になったのだ。
松永久秀の謀反の理由
こうなればしめたもので、謙信はまず能登を勢力下に置き、さらに南下しようと目論んで出兵した。その動きを受け、七尾城(石川県七尾市)の長続連は友好関係にあった信長に救援を要請。謙信の南下に危機感をいだいていた信長は、即座に軍勢の派遣を決めた。それが勝家率いる軍だったのである。
謙信の動きは、たんなる南下で済まないはずだった。義昭の要請を受け、本願寺のほか武田家(勝頼)とも和睦した謙信は、上洛を急いでいたと考えられる。
しかも、これまで謙信の上洛にとって最大の障害だった大坂本願寺が、いまでは味方なのである。そんな状況であればこそ、信長は焦って北陸に軍勢を送ったわけだが、天正5年(1577)9月、勝家率いる織田軍は手取川(石川県白山市)で上杉軍の猛攻を受け、大敗を喫してしまった(手取川の戦い)。
松永久秀が謀反を起こしたのは、その前月のことだった。そのとき、大坂本願寺を攻めるために築かれた天王寺の砦で城番を務めていた久秀が、謙信が本願寺と和睦した以上、本願寺を敵に回すより、本願寺側についたほうが脈はあるのではないか、と判断したとしても不思議ではない状況だったのだ。

