相次ぐ謀反を動かした黒幕
一方、信長にとっては、謙信上洛の可能性があるならなおさら、久秀は真っ先につぶしておかなければならない。嫡男の信忠が率いる10万もの軍勢を派遣し、本拠地の信貴山城(奈良県平群町)を包囲させた。太田牛一の『信長公記』にはこう書かれている。
〈十月十日夕刻、信忠は佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀にそれぞれの攻め口を命じ、信貴山へ攻め上がり、城を夜攻めにした。松永勢は防戦したが、弓折れ矢尽きて、松永久秀は天守に火を放ち、焼死した〉(中川太古訳)
だが、一難去ってまた一難。翌天正6年(1578)2月には、播磨(兵庫県南西部)の三木城(三木市)を本拠とする別所長治が信長に離反した。この謀反も種々の史料によれば、長治が単独で判断したとは思われない。この時期、播磨では信長への離反が相次いだが、背後に本願寺の存在が見える。さらには足利義昭が長治の離反を歓迎していることから、これも義昭がたくらんだ信長包囲網の一環であった可能性が高い。
むろん、義昭および本願寺による調略がそれなりに成功したのは、上杉謙信が上洛すれば、さしもの信長も危うい、という判断があったからに違いない。ところが翌3月、だれも予期しないできごとが起きた。謙信が急死してしまったのだ。
酒好きがたたっての急死
謙信は天正6年(1578)3月15日から遠征に出る予定で、その準備をしていたが、3月9日に突然倒れた。『甲陽軍鑑』には〈寅の三月九日に謙信閉所にて煩出し、五日煩い〉と書かれている。つまり閉所で倒れ、5日間ほど昏睡状態が続いたのち、13日に死去したという。
閉所で急に倒れたことから脳血管障害を疑う向きが多い。謙信は飲酒が大好きだったので、糖尿病が原因の高血圧だったのではないかと考えられている。ともかく、まさに出陣しようとし、そのまま上洛したかもしれない謙信が、こうして急死を遂げてしまった。
しかも、悪いことが重なった。妻帯しなかったとされる(妻はいた、という説もある)謙信には実子がなく、養子を迎えていた。謙信の姉の次男で甥にあたる景勝と、北条氏康の三男でその能力を謙信が高く買っていた景虎。そのどちらを跡取りにするか、謙信はまったく決めていなかったため、その死後、後継を争って御家騒動(御館の乱)が発生し、景虎が切腹に追い込まれるまで1年近く続いた。
こうして、信長にとって最大の脅威になろうとし、その存在があるがゆえに、謀反をくわだてる武将が次々に現れた上杉家は、勝手にどんどん弱体化したのである。

