なぜ4階分を吹き抜けにしたのか

そして、ここには書かれていないが、安土城は地階を含む1階から4階まで吹き抜け構造だったらしい(5階までという説もあり)。1976年に名古屋工業大学教授・内藤昌が静嘉堂文庫(三菱財閥・岩崎家が所蔵する美術品を所蔵)の所蔵する「天守指図」という史料を参考に提唱したのだ。

安土城天主断面(内藤昌監修、安土城郭資料館)
安土城天主断面(内藤昌監修、安土城郭資料館)(写真=(Uiki bastard) うぃき野郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

安土城が後世の城――たとえば、大坂城や姫路城――と異なるのは吹き抜け構造になっている点である。これは軍事的な要塞としても、政庁としても甚だ使いづらい。ではなぜ、あえて吹き抜け構造にしているのだろうか。

ここで思い出されるのが教会建築だ。旧サン・ピエトロ大聖堂(バチカン市国)の断面図と安土城のそれを比較すると極めて似た構造であることが分かる。

サン・ピエトロ寺院の古い設計図
サン・ピエトロ大聖堂の古い断面図 ※写真はイメージです(写真=iStock.com/Nastasic)

キリスト教は戦国時代に伝来し、永禄4(1561)年に京都に礼拝堂が建立されたが、古くなったため、京都所司代・村井貞勝の援助により、天正4年に礼拝堂(南蛮寺)が再建され、7月16日に献堂式のミサが行われた。村井は信長家臣なので、当然、礼拝堂の再建は信長の承認を得たもので、その過程でどのような建造物を建てるのか、宣教師から事前にプランを提示されていたに違いない。

西洋風にゴージャスにしたワケ

信長が南蛮寺のプランを見て、西洋の教会建築に好奇心を示し、日本で似たものを造らせたのではないだろうか。高層建築で、中が吹き抜け、色鮮やかな障壁画という安土城の特徴は、そのまま西洋の教会建築を模したのだろう。

また、江戸時代の城といえば、派手な障壁画・襖絵を思い浮かべるが、安土城以前にはそのような文化がなかったと思われる。日本最古の障壁画は、延徳2(1490)年頃に作られた大徳寺養徳院の障壁画といわれ、水墨画だった。狩野永徳画の唐獅子図のような色彩鮮やかなド派手なものではなかった。

狩野永徳画「唐獅子図屏風」(皇居三の丸尚蔵館蔵)
狩野永徳画「唐獅子図屏風」(皇居三の丸尚蔵館蔵) 出典=colbase

一方、西洋の教会建築では早くから極彩色の障壁画が描かれ、ステンドグラスで紋様を描く文化があった。信長は宣教師からそうした知見を得、安土城に取り入れたのかもしれない。

また、天守閣は通常「天守」と書かれるが、安土城では「天主」と書かれる。これはゼウスを意味するのかと思ったが、天守閣を「天主」と書く事例はそれ以前にもあり、筆者の妄想でしかなかったようだ。