姉川は「家康公はすごかった」伝説
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で姉川の合戦が描かれた。概要だけ述べると、元亀元(1570)年6月28日、近江(滋賀県)の姉川(という川)を挟んで、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と合戦に及び、織田・徳川連合軍が勝利した。高校の日本史の教科書にも出てくる有名な合戦である。
ただし、負けた浅井・朝倉家はその後に極端に零落したわけではなく、「あの合戦が転機だった」と関係者が語るような重要な分岐点ではなかった。有名な割には、歴史的な意義に乏しい合戦だった。ではなぜ、そんなに有名かといえば、徳川軍ががんばって、劣勢の織田軍を救ったからだ。そして、のちに徳川家が天下を取ったから、幕府の御用学者が盛大に徳川軍の強さをアピールしたに過ぎない。
ではなぜ、徳川軍はそんなに活躍できたのか? その理由を考える前に合戦のあらましを述べておこう。
実際にはどんな戦いだったか
「豊臣兄弟!」でも描かれたように、永禄13(1570)年4月、織田信長(小栗旬)は朝倉義景(鶴見辰吾)を討つため、越前に進軍。しかし、浅井長政(中島歩)が離反して窮地に陥る。信長は木下藤吉郎(池松壮亮)に殿軍を命じて撤退。藤吉郎は命からがら窮地を脱した(金ケ崎の退き口)。
元亀元年6月21日(1570年4月に改元)、信長は浅井長政の居城・近江小谷城を攻めるために出陣。まず、森可成(水橋研二)、不破光治(河内大和)ら8000の兵が雲雀山に上って町を焼き払った。一方、信長の本陣は、小谷城の南方おおよそ2キロメートルに位置する虎御前山(滋賀県長浜市中野)に布陣し、柴田勝家(山口馬木也)、佐久間信盛(菅原大吉)、木下藤吉郎、丹羽長秀(池田鉄洋)および近江衆に命じて所々を放火させた。
しかし、小谷城が容易に落ちそうもないと見ると、信長は翌6月22日にいったん退却した。殿軍には佐々成政(白洲迅)ら3名が命じられた。6月24日、信長は竜が鼻(滋賀県長浜市東上坂)に首尾よく移動した。ここで、徳川家康(松下洸平)が率いる援軍が到着する。信長は、竜が鼻の南に位置する浅井の支城・横山城(滋賀県米原市山室)の四方を囲ませた。

