軍議に秀吉・勝家が不在のワケ
桐野作人氏の説は非常に興味深い。桐野氏は「南部文書」の記述を引いて、「信長が諸将を集めて軍議を開くが、そこに同席した者は、美濃三人衆と家康のほか、旗本衆の坂井政尚・池田恒興・市橋長利・丸毛光兼、近江国衆の堀秀村・苅安某だけだった。柴田勝家・木下秀吉など有力な諸将は参加していない点が重要である。また、美濃三人衆を先手に決めたけれど、徳川勢が戦意旺盛で他の諸勢より先んじて進んだため、信長が美濃三人衆から家康に先陣を変更している」と指摘している(桐野作人『織田信長』。太字は引用者)。
ではなぜ、有力な諸将は軍議に参加しなかったのだろうか。特に、小谷城攻めに参加していた柴田勝家、佐久間信盛の姿が姉川の合戦でまったく見えないのが奇異に感じる。
浅井を侮っていた信長の失敗
信長は6月22日に小谷城攻めからいったん退却している。これは私見であるが、信長はこの時に柴田・佐久間を近江の諸城に戻し、両人は姉川の合戦に参加していなかったのではないか。
信長は足利義昭を奉じて上洛する途中、南近江の六角家を滅ぼし、その跡地に織田家臣を配した。現在の大津市付近に佐久間信盛、近江八幡市付近に柴田勝家を置いた。しかし、六角残党はその後もゲリラ活動を行い、金ケ崎の退き口の直後に南近江で挙兵。さらに、信長は5月20日に千草山中道筋(滋賀県東近江市近辺)で杉谷善住坊に鉄砲で狙撃された(銃弾は袖をかすっただけで事なきを得たが)。
信長は、浅井長政が合戦を挑んでくるだけの覚悟がないと侮り、むしろ京都に戻る帰路を万全とするため、柴田・佐久間を帰陣させてしまったのだろう。

