政治家も経済人も芸能人も、自分の大望、野心の素晴らしさを周囲に伝える際に頼るのが明治維新である。確かに明治維新は、西洋列強に怯えていた幕末の日本が、世界有数の大国へと変貌を遂げる、その出発点だ。輝かしく見えても、おかしくはない。

現実に起きた明治維新が、最良に近い政変だったことは確実だが、同時にそれは幕末の政治的階級だった武士たちの大多数の期待を裏切るものでもあった。おかげで明治初期の日本には、いつ爆発するともしれない政治的不満が渦巻いていたのである。政府は当然のように、反体制運動に神経を尖らせていた。

そこで密偵たちの登場となる。今風に言えば、スパイだ。所属先は、維新政府の組織替えとともに、弾正台から正院監部、内史分局へと衣替えをするが、仕事は同じだった。著者は日本近代史の必携資料に加え、早稲田大の大隈重信文書の中にあった密偵たちの報告書などの一次資料を頼りに、その姿を再現する。

まず、密偵たちの素性だ。大隈の回想によれば「使った中では土佐人なんかは、却々(なかなか)其術に長じて居た方である。之れに次いで旧幕臣とか、静岡や東北辺の不平か、嘗ては勤王を唱えて天下の志士と称して横行して居る神主等、これ等の連中を使ふて見たが、余り其実績は挙がらな」かったという。不満分子の内情を探るのに、それに近い出身の人間を使ったわけだが、坂本龍馬など英雄型が多そうな土佐人が最も役に立ったというのが興味深い。一方、旧幕府のスパイ組織とされる御庭番は、維新後には雲散霧消してしまったようである。

彼ら密偵の仕事には、不平分子や潜在的な敵の内情を探るのみならず、世論調査のようなものもあった。それほど物情騒然としており、しかも信頼のおける客観的な新聞も当時はなかった。明治5(1872)年に提出された密偵報告書によれば、水戸の城下の様子は次の通りだ。

「元水戸の士族は7、800石取の者は現米50俵、それ以下は30俵か20俵くらいで、いずれも内実は窮迫している。長剣を帯びており、断髪した者はさきごろ兵隊に選ばれた者のほかは1人もいない。士風ははなはだ不開化である」

旗本を基準にすれば、知行800石は現米換算で280俵だという。それが50俵に減らされた。士族たちは、大恐慌時の米国の労働者もびっくりの収入「爆縮」を経験したことになる。これでは「開化」どころではない。政情不安も当然だ。

このほか、初期の新政府が警戒していたキリスト教宣教師の内情を探っていた密偵が、やがて日本の幼稚園教育のパイオニアに……といった興味の尽きないエピソードも多い。この密偵は宣教師の人柄に惹かれつつも、その教説には脅威を覚えていたわけで、結論が幼児教育による精神防衛だったのだ。こうした密偵たちは時代が下り、国家制度が整備されるとともに警察組織へと吸収されていった。

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