1827~77年。下級武士だったが、薩摩藩主・島津斉彬に抜擢され、江戸で篤姫の輿入れ準備などを担当した。斉彬急死で失脚するも小松帯刀らの後押しで復帰。薩長同盟、王政復古などを進めた。明治10年、西南戦争の指導者となり城山で自刃。享年51。
「敬天愛人(けいてんあいじん)」――「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故(ゆえ)、我を愛する心を以(もっ)て人を愛するなり」(『南洲翁遺訓:なんしゅうおういくん』)。
道往く人に「西郷隆盛と聞いてなにを想像しますか?」と質問をすれば、おそらくは悲劇の英雄像を思い浮かべ、「西南戦争」「自刃」といった回答が返ってくることだろう。日本人は「源義経」と同じくらいに悲劇的な最期を迎えた「西郷さん」「西郷どん」のことが好きだ。なにせ判官贔屓(はんがんびいき)の国民だから。
明治維新後の西郷隆盛は、参議として入閣して廃藩置県を断行。木戸孝允・大久保利通らを含む岩倉具視一行が米欧諸国巡遊に出かけているあいだ留守政府をあずかり、武力による日朝修好条約締結(征韓論:せいかんろん)に反対し、使節就任を志願する。使節就任は閣議決定するが岩倉らの帰国まで保留となる。岩倉らが帰国してのち再度閣議決定したものの、反対する閣僚たちの辞任問題にまで発展(征韓論争)。ついに使節就任を阻止され、西郷は下野する(明治6年の政変)。
西郷は鹿児島にもどって私学校を設立するが、政府に挑発された私学校党に擁立されるかたちで西南戦争を起こし、明治10(1877)年9月24日、城山で自刃する……。
だが西郷を真に評価しなければならないのは明治維新にいたるまでだ。
数え18歳で郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に就き、28歳で藩主島津斉彬(なりあきら)の参勤に随行して江戸に出、斉彬の養女篤姫(あつひめ)の輿入れ準備を担当した西郷は、庭方役(にわかたやく)として斉彬の「目」となり「耳」となって働き、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)、斉昭のブレーン藤田東湖(とうこ)、越前藩士橋本左内(さない)らと知り合い、少しずつ人脈を広げていく。