橋本左内(はしもと・さない)
1834~59年。49(嘉永2)年、大坂の適塾で医者の緒方洪庵らに師事、蘭法医学を学ぶ。57(安政4)年以降、由利公正らと幕政改革に参加、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。井伊直弼の画策により、安政の大獄で刑死。

さて、そんな左内が志士として知られるようになるのは、明道館の任務を終え江戸へ呼び寄せられてからのことだ。藩主・春嶽の知恵袋として慶喜擁立活動を展開する。が、対立する紀州派の頭目・井伊直弼に憎まれ、結局は安政の大獄に連座し、長州の吉田松陰らとともに斬首されてしまうのである。26歳だった。

だが、悲運の志士の精神は、維新を担った傑物らに引き継がれた。たとえば「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」で始まる明治元年の「五箇条の御誓文」。起草者の由利公正は元福井藩士で左内から大きな思想的影響を受けた。

心を奮い立たせる三カ条
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心を奮い立たせる三カ条

また、左内との親交が厚かった西郷隆盛は「我、先輩においては(水戸学の大家である)藤田東湖に服し、同輩においては橋本左内に服す」と述べている(白崎昭一郎著『橋本左内』毎日新聞社)。

のちに西郷は、西南戦争に敗れ自決する際、かたわらの手文庫に左内からの手紙を忍ばせていたという。左内という人物が才気だけでなく、人としていかに誠実で魅力的な人物だったかを、うかがい知ることができるエピソードだ。

今、経営者として強く思うのは、儲けだけを優先させて人としての誠実さを忘れてはならないということだ。とりわけ、私が手がける保険という商品は、損得ではなく助け合いの精神から生まれたものだ。私自身も営業畑を歩いてきたが、会社が儲けようとして商品を売るのではなく、お客様のために提供するという発想がなければ長続きはしない。そのことを考えるとき、利害とは無縁に短い生涯を凛と生きた青年の姿が胸をよぎる。

よく「坂本龍馬が明治まで生きていたら日本はどのような国になったか」という問いを立てる人がいる。知的好奇心をかきたてる「歴史のIF」だが、私は「橋本左内が幕末を生きのびていたら」を夢想してしまう。左内は戦場で華々しく散った英雄でもなく、たぐいまれな権謀術数力でしたたかに生きた策士でもない。しかし、その驚くべき先見力と天才的な頭脳で、早逝しなければ新政府の重要な担い手になっていたのは間違いない。彼ならば、明治国家をどのような方向へ導いただろうか。

(構成=面澤淳市 撮影=大沢尚芳)