1835~69年、武蔵国多摩郡(現・東京都日野市)生まれ。新選組副長、蝦夷共和国陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取。戊辰戦争では、幕府側の指揮官として卓越した軍才を発揮。明治二(69)年新政府軍による箱館総攻撃により戦死。
それにしても、こうした能力をいつ体得したのかと考えてしまう。司馬の説では、生家が骨折や打ち身の特効薬として販売していた家伝の散薬を作る夏の農閑期に、村中の人たちを集め、原料を採集したり、製剤する際の段取りをした経験が生きているとする。とはいえ、やはり生来のものが大きいのではないだろうか。
ただ、こうした若いときの経験が人生の円熟期に生かされることは少なくない。私の場合は学生時代における鎌倉・円覚寺での学生坐禅会だ。最終学年の3月には世話役を務めたが、そのときは137名が参加した。4泊5日の間、彼らの食事や部屋決めを行う。毎日の掃除など仕事の分担と人数割りには即座の意思決定が必要だった。その経験が経営者としてのマネジメントに大いに役立っている。
さて、激動の時代というものは、勝者と敗者をはっきりと分ける。滅びゆく幕府側に身を置いた新選組は、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで敗れてからは、朝敵となって江戸へ戻る。そして作戦家の力量を買われた土方は戊辰戦争の最中、戦場を血で染めながら会津若松へ、そして箱館五稜郭へと転戦していく。
結局、多くの人の胸を打つのは、土方の“節義”ではないだろうか。彼が時代の変化というものを読み切っていたかどうかの判断はむずかしい。しかし、その生き方はまったくブレていないのだ。かつて彼とともに行動していた大鳥圭介や榎本武揚が、後に維新政府に出仕したことに比べても潔さが際立つ。
その根底にあるのは、すさまじいまでの自己規律に違いない。戊辰戦争における土方は、軍事面のナンバーツーである陸軍奉行並の立場にあった。平時なら考えられない出世である。彼は負け戦にあっても率先して指揮をとり続け、北の地で華々しく散っていった。最後まで、自分自身のアイデンティティに忠実に生きたといえるだろう。
最近つくづく思うのは、晩節を汚してはならないということだ。せっかくの偉業や名声も退き際を間違えると、一瞬にして崩れ去る。要因は、一に金銭、次に異性、そして名誉。土方歳三は、そのいずれも関係がなかった。だからこそ庶民の胸に生き続けることができたのだ。