1834~59年。49(嘉永2)年、大坂の適塾で医者の緒方洪庵らに師事、蘭法医学を学ぶ。57(安政4)年以降、由利公正らと幕政改革に参加、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。井伊直弼の画策により、安政の大獄で刑死。
黒船来航に揺れる幕末日本。攘夷派・開国派、佐幕派・倒幕派が入り乱れ、政治状況が混沌としている中で、冷静な貿易立国論を唱え、のちの明治国家のグランドデザインを描いていたのが若き福井藩士・橋本左内である。
左内は、当時の将軍継嗣問題で紀州慶福(家茂)を担ぐ井伊直弼を中心とする一派に対して、一橋慶喜を推す福井藩主松平慶永(春嶽)に重用された。
だが、当時大きなテーマとなっていた「攘夷か開国か」という安易な二分法に染まらず、複眼的な視点から日本の将来を見通していた。将軍の継嗣問題など、ある意味でコップの中の嵐にすぎない。広く世界を見渡せば、当時のインドや中国(清)といった大国が西欧列強に蹂躙され、植民地にされているという恐るべき現実がある。
左内はこれを直視したうえで、貿易による富の蓄積、西洋の機械や制度の導入、軍事力の強化などを主張した。また、徳川将軍のもとに諸大名から庶民まで広く各層から有為の人材を集め、挙国一致型の政府をつくるべきだと発言している。
まるで来るべき明治時代を先取りしたかのような先進的な考えである。今の世界同時不況は「100年に一度」といわれるが、幕末の日本を呑み込んだのもまさに100年、200年に一度の大変化だ。当時も今も、国内問題だけではなく外的要因が複雑に絡み合い、事態がどう動くか簡単には見通せないということは共通している。外的要因とは、現在なら各国の財政事情や市場の動き、当時であれば列強の動向や思惑だ。
先の見えないときほど、人は表面的な情報を鵜呑みにしたり、内向きの利権争いに力を注いだりしがちである。だが、将来の日本を思うとき、それでは根本的な解決にならないことを左内はよく理解していたのだろう。単純な攘夷主義者などとは一線を画し、深く多面的な見方によって現実的な解を追い求めた。将軍や大名といった既存の秩序を利用しながら、新しい時代に通用する政治体制をつくろうとしたのだ。その柔軟で現実的な発想に、大きく共感を覚える。
私が長年身をおいてきた生命保険業界もここ数年、激動の時期を迎えている。保険金の支払い問題などで厳しい状況にさらされた。この時期に経営のバトンを受けた私は、お客様からの信頼回復が最大の使命だと考えている。
すべてをご破算にして再出発できるなら簡単だ。しかし、現実には負の遺産を含めた事業の伝統をすべて受け継ぎながら、少しずつ、着実に成果をあげていかなくてはならない。乱世における左内の発想は正鵠を射ており、自らの思いと重なり合う気がしてならない。
左内の卓越した先見性や、グローバルな思考はどこから導きだされたのか。