福井藩の藩医・橋本長綱の長男として生まれた左内は、大坂の適塾に学び、オランダ伝来の西洋医学を修めた。私が何より敬服するのは、15歳の若さで、志士としての自覚と決意を綴った名著『啓発録』(講談社学術文庫)を書き上げたことだ。歴史上の偉人らの言動を引いて、若い自分たちはいかに生きるべきかを説いている。この本を読むと彼がどれほど早熟で、天才的な頭脳の持ち主だったか思い知らされる。

当時の知識人としての素養は国学や儒学だが、左内にはそれに加え、蘭学・洋学の心得があった。「和魂洋才」のさきがけともいえる立ち位置は非常に注目すべき部分だと思う。

福井へ戻り藩医になった後、左内は春嶽の命により藩校・明道館の改革を行う。実学としての洋学を教える洋書習学所や経済を講ずる算科局を設置したのだ。合理的な西洋医学を学び臨床医として病と闘ってきただけに、抽象思考に陥りがちな一部の儒者や武士とは違う合理精神、現実論を持ち合わせていたのだろう。

政治でもビジネスでも確実に結果を出すためには、多角的な情報を集め、自らの頭で熟慮したうえで、現実的で合理的な手法をとるしかない。左内の場合、実学のバックグラウンドがそこに大きく貢献したことは間違いない。現代に生きる私たちも見習うべき点であろう。

たとえば新聞やテレビの経済ニュースが伝えるのは表層的な事実にすぎず、経済の実相には迫っていないかもしれない。また、特定の業界や会社の中だけで共有されている常識は、広い世界から見ればひどい誤解かもしれない。激動期こそ、内向きになることなく本業や専門と違った分野にも目を向け、複眼的な目で世界を眺めるべきだ。でなければ、新たな時代に備えることはできないだろう。

(構成=面澤淳市 撮影=大沢尚芳)