井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)は、幕末、黒船来航以後の、尊皇攘夷思想の擡頭(たいとう)の中で、志士たちを次々と処刑する安政の大獄を起こし、ついに水戸浪士たちによって桜田門外で暗殺された人である。舟橋聖一はその生涯を小説『花の生涯』に描き、これがNHK大河ドラマ第一作の原作となった。

明治維新以後、井伊は幕府方の人間であるのみならず、長州の吉田松陰を処刑した当人でもあるから、あまり井伊をよく言う人はなかったが、しかし考えるならば、攘夷というのは無理なことである、というのは、当時既に賢明な人には分かっていたことで、直弼の処断は正しかったというほかないのである。

なお井伊は大老だが、徳川幕府中期から、大老は井伊家から出ることになっていた。直弼はもともと十四男であり、家はもちろん長兄が継ぎ、ほかの兄たちも他家へ養子に行った。当時は、大名の次男以下はそれが普通のことで、しかし直弼だけは養子先がなく、30過ぎまで部屋住み、つまり一人前の扱いを受けず、彦根に埋木の舎(うもれぎのや)という住まいを設けて、そこで家臣の長野主膳を相手に、不遇を託(かこ)ちながら勉学に励んでいた。それが、長兄が継嗣がないまま急死して、他の兄たちは他家へ行っていたことから、急遽直弼が彦根藩主になり、幕府へ出仕するとその英才は隠れもなく、多難の時に当たって、大奥の意思もあって大老に就任したのである。ほかの井伊家の大老たちは、名目上のもので、直弼のように専権をふるったことはない。