井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)は、幕末、黒船来航以後の、尊皇攘夷思想の擡頭(たいとう)の中で、志士たちを次々と処刑する安政の大獄を起こし、ついに水戸浪士たちによって桜田門外で暗殺された人である。舟橋聖一はその生涯を小説『花の生涯』に描き、これがNHK大河ドラマ第一作の原作となった。
明治維新以後、井伊は幕府方の人間であるのみならず、長州の吉田松陰を処刑した当人でもあるから、あまり井伊をよく言う人はなかったが、しかし考えるならば、攘夷というのは無理なことである、というのは、当時既に賢明な人には分かっていたことで、直弼の処断は正しかったというほかないのである。
なお井伊は大老だが、徳川幕府中期から、大老は井伊家から出ることになっていた。直弼はもともと十四男であり、家はもちろん長兄が継ぎ、ほかの兄たちも他家へ養子に行った。当時は、大名の次男以下はそれが普通のことで、しかし直弼だけは養子先がなく、30過ぎまで部屋住み、つまり一人前の扱いを受けず、彦根に埋木の舎(うもれぎのや)という住まいを設けて、そこで家臣の長野主膳を相手に、不遇を託(かこ)ちながら勉学に励んでいた。それが、長兄が継嗣がないまま急死して、他の兄たちは他家へ行っていたことから、急遽直弼が彦根藩主になり、幕府へ出仕するとその英才は隠れもなく、多難の時に当たって、大奥の意思もあって大老に就任したのである。ほかの井伊家の大老たちは、名目上のもので、直弼のように専権をふるったことはない。
そして数年の後、安政7年3月3日、大雪の日に江戸城へ登城の際に邀撃(ようげき)され、46歳で落命したのである。人はここまではよく知っているが、その後の彦根藩については知られていない。家康四天王の家柄でありながら、当主の暗殺に遭った彦根藩は、以後むしろ薩長寄りになり、直弼の遺志を継いで幕府を守るということはなかったのである。
実に波乱に富んだ人生だが、私はどうも、暗殺された政治家に対して同情的になる傾向があって、直弼も好きなのである。ところで人はあまり言わないが、桜田門外の変からちょうど100年目に、あの安保騒動が起きている。私なども高校生の頃は、岸信介がまだ生きていて「昭和の妖怪」などと呼ばれ、岸は悪い奴だと思っていたが、考えてみたら、あれも一種の「攘夷」だったし、日本が米国と同盟しなければやっていけないという点で、岸の判断は直弼と同じように正しかったのである。私がそのことに気づいたのは、その安保闘争の一方の闘士だった西部邁の、岸再評価の文章を読んでからだが、その後西部自身が反米などと言い出して、攘夷の志士みたいになってしまった。
直弼も、信念の人として描かれることが多いが、攘夷というのは、要するに心情倫理であり、太平洋戦争にしても、その心情倫理が激発して始まったものであり、その後のベトナム反戦運動やイラク戦争反対運動の背後にも、心情としての反米感情があるとすれば、井伊直弼の生涯は、まるっきり現代の問題になってくるのである。
私なども、北米に留学したことがあるから、敗戦国民としての屈辱は、何がしかはこうむっている。しかし、地政学的にいって、日本は米国と同盟することによってしかやっていけない。米国から心の傷を受けつつ、江藤淳はそのことを説き続け、江藤の自殺以後、9.11テロが起こり、イデオロギーの左右を問わず、反米の嵐が吹き荒れたのは、何だか言論版攘夷のように見える。むしろ直弼の、米国の軍事力を無視することはできないという現実を直視し、心情の激発を抑えようとした政治理念こそ、見直されてしかるべきではないかと思う。