なぜ江戸幕府は鎖国政策をとったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「実は初代将軍家康はかなり海外交易に前向きだった。しかし、彼の死後、跡を継いだ秀忠や家光はキリシタンなどの脅威を廃除したいという意識ばかりを募らせ、外交も貿易も縮小させてしまった」という――。
夕日に照らされた帆船
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内向きと思われている家康の本当の姿

織田信長と豊臣秀吉は、海外との交易に積極的だったが、徳川家康は内向きだった――と思っている人が多い。たしかに徳川は鎖国のイメージが強いが、家康の存命中は違った。それどころか、二百数十年後に開国するまでの日本史上で、海外との交流がもっとも盛んな時代だった。

秀吉の朝鮮出兵の後始末はひとつの契機だった。家康の指揮で半島からの撤兵を終えると、関ケ原合戦の前年の慶長4年(1599)には、対馬の宗義智そう・よしとしに朝鮮との講和交渉を命じている。

数百人の捕虜の送還を経て、慶長9年(1604)に非公式の使者として惟政ユ・ジョンらが訪日。翌年、伏見城で家康と面会した。慶長12年(1607)には「回答兼刷還使」が江戸で将軍秀忠と、駿府で大御所家康と面会し、翌々年には日朝講和が成立。200年にわたって続く朝鮮通信使外交がはじまった。

明国との関係修復にも熱心で、修好回復を熱望した。国交関係は結べなかったが、明国商人の入港は認め、事実上の通商関係は復活した。また、慶長14年(1609)の島津義久による琉球征服を歓迎し、琉球経由でも民国との接触も試みている。

主な渡航先は「中国」でも「朝鮮」でもない

家康に特徴的なのは、東南アジア諸国との通交に積極的だったことだ。慶長6年(1601)以降、安南(ベトナム北西部)、交址(ベトナム南部)、占城(ベトナム中部沿岸地方)、暹羅(タイ)、柬埔寨カンボジア、大泥(マレー半島)などに親書を送り、外交関係を結んでいる。

アンコールワットと蓮の池
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こうして朱印船貿易が盛んになった。家康が朱印を押捺した渡航許可証をもたせて船主の身元を保証し、通交の安全を保障する貿易である。朱印状発給を通じて、家康は外交と貿易をすっかり掌握することになった。

その点への笠谷和比古氏の指摘が興味深い。関ケ原合戦後に大名を配置する際、家康は口頭で伝えただけで朱印状を一切発給していないのに、貿易船にはどんどん発給した。

笠谷氏は、「対内的には秀頼と豊臣家の存在と権威とが、家康の朱印状発給を阻んでいたからであった。それゆえに家康にとっての外交問題は、一面ではこの対内問題での桎梏しっこくを克服して、徳川主導の国制を確立するための方途であったと理解することができる」としている(『徳川家康』ミネルヴァ書房)。

将軍職を譲った秀忠のほか、豊臣家にも朝廷にも遠慮が要らない家康の専権事項が外交だったのである。慶長7年(1602)以降、家康が元和2年(1616)に没するまで15年足らずで、206隻が朱印状を得て海外に渡航し、渡航先の8割ほどは東南アジアだった。