捻れた師弟関係
無二斎は元々、竹山城主の新免家の家老職であり、十手・刀術に秀でた人物として知られていましたが、宮本村で武蔵が誕生したおりには、牢人生活をしていたといわれています。
心が荒んでいたからなのか、無二斎による武蔵への剣術の稽古は、苛烈を極める完全な厳格指導であり、そこに親子の情愛は伺えませんでした。
無二斎が楊枝を削っている姿を見た武蔵が、その不器用さを笑ったところ、怒った父は手にしていた小刀を、息子に投げつけたことさえあります(手加減はしたでしょうが)。二人は歪んだ親子関係であり、拗れた師弟といえそうです。
父親に対する憎しみを燃やす武蔵は、いつか師である無二斎を「殺してやろう」とさえ考えたようです。だからこそ徹底的に無二斎を意識し、武術を研究しつづけました。けれども、この骨肉の争いには後日談があります。
巌流島の戦いといわれる佐々木小次郎との決闘に勝利した武蔵ですが、一説に船島に上陸することを小次郎の弟子にだけ禁じ、自らは門人を従えて上陸したともいわれています(武蔵の門人たちが、寄ってたかって小次郎に止めを刺した、ともいわれています)。
人に教えるのでなく『五輪書』を書き残す
そのため、巖流と呼ばれた小次郎の弟子たちから、武蔵はつけ狙われる羽目となりました。自分たちの師匠の敵討ちだとばかりに、彼らは武蔵の首を求めたのです。
このとき、窮地に陥った武蔵の身を匿ってくれたのは豊後国、現在の大分県にあった日出藩木下家でした。なぜならば、この木下家において父の無二斎が、剣術師範をしていたからです。
決闘に勝利しても大名家の剣術師範の声はかからず、行くあてのない武蔵を匿ってくれるよう、無二斎が藩主を説得したのでした。あれほど憎み合った親子であり、師弟でしたが、最後は和解したとも考えられます。
剣客の道を選んだ武蔵は、父親の気持ちが少しわかったのかもしれませんし、あれほど否定していた父親が、自分を救ってくれたことへの感謝もあったでしょう。
ただ、それはあくまで父と子としての和解であり、いまさら師と弟子の関係には戻れるはずもありませんでした。なぜならば、武蔵は我流を極めたからです。
こうして宮本武蔵は生涯、師という存在を深く理解する機会を持たぬまま、やがて肥後熊本藩細川家に客分扱いで召し抱えられます。
ここでも武蔵は人に教えることの困難さもあり、『五輪書』を書き残すことで、己れの流儀を後世に伝える道を選びました。
彼は弟子を導くということには、向いていなかったのでしょう。


