江戸時代の豪商からビジネスを拡大、三井財閥を形成した三井家。系図研究者の菊地浩之さんは「今から140年前、三井北家10代目当主となった高棟は伯爵の妹と結婚。5人の娘をもうけて、そのうち3人の娘を華族に嫁がせ、ランク・アップを目指した」という――。

※本稿は、菊地浩之『財閥と閨閥』(角川新書)の一部を再編集したものです。

三井高棟
三井高棟(10代三井八郎右衛門)の肖像写真、1913年、『華族画報』(華族画報社)より(写真=作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

三井十代目の当主「高棟」とは

幕末維新時の三井北家の当主は、八代目・三井八郎右衛門高福だったが、1878年に隠居し、長男が家督を継いで襲名した。九代・三井八郎右衛門高朗たかあき(1837〜1894)である。

高朗は病弱で子がなかったので、1863年に実弟の五十之助いそのすけを順養子としていた。五十之助は父・高福の八男にあたり、同母兄が3人いたが、両親や義姉に愛されていたため、次期当主に選ばれたらしい。そして、1885年三月に高朗が隠居し、養子・五十之助が家督を継いで襲名した。十代・三井八郎右衛門高棟たかみね(1857〜1948)である。

この時、高朗は49歳(数え年)、高棟は29歳だった。高朗は幕末維新に父を助けて活躍し、人望もあった。若すぎる隠居であった。隠居の理由は、明治政府からの東京移住要請を拒否してのことだという。

意外に認識されていないが、三井家は元祖・三井八郎兵衛高利以来、京都を本拠としていた。しかし、明治政府は財政的な理由から、三井家に東京に移住するように指示し、ついにそれが実現する運びとなった。高朗は京都から離れることを嫌い、高棟に家督を譲って京都に残る選択をしたのである。

かくして、高棟は1933年に77歳で隠居するまで、50年弱、三井総領家の当主として君臨した。ちなみに実父・高福は、高棟が家督相続した9カ月後に死去している。

三井財閥の婚姻戦略を高棟の婚姻戦略から見ていこう。

1923年の大正全国富豪番付
1923年の大正全国富豪番付(大正12年)、『今古大番付:七十余類』(文山館書店)より(写真=東京番附調査会/Public domain/Wikimedia Commons

前田伯爵の妹と結婚し、華族に

明治29年に受爵した三者(三井高棟・岩崎弥之助・岩崎久弥)には、華族との姻戚関係の結び方に共通点がある。三者とも、爵位を授かったときにはすでに華族の子女を妻としているのである(高棟は男爵になった)。

三井八郎右衛門高棟は1892年12月15日に、実兄・三井高弘の紹介で、旧越中富山藩主の伯爵・前田利同としあつ(1856〜1921)の養妹である苞子もとこ(1869〜1946)と結婚した。

実は高棟も苞子も再婚である。高棟は1883年4月に大阪加島屋・広岡信五郎の養女である幾登きとと結婚。1885年に長男・高寿たかかずが生まれたが、ほどなくして母子ともに死去した。苞子も1889年頃に旧越前丸岡藩主の子爵・有馬家(嗣子・有馬純文[1868〜1933]か?)に嫁入りしていたが、有馬家の不都合で離縁されていた(『三井八郎右衛門高棟伝』)。