長女は公家の中御門家と上昇婚

さて、高棟の娘のうち、公家華族と結婚したのは長女、次女、五女である。

長女・慶子のりこ(1894〜1995)は1913年に公家の侯爵・中御門経恭(1888〜1954)に嫁いだ。中御門経恭は男爵の中御門経隆(1852〜1930)の次男に生まれ、1899年に本家筋の侯爵家を継いだ。伯父の中御門経明(1850〜1898)が一人娘・万千子(1889〜1975)を遺して死去したため、その跡を継いだのだ。経恭の母は公爵・岩倉具綱の長女で、高棟夫人の義弟・岩倉具明の従姉妹にあたる。そういったツテを頼って婚姻に至ったのかもしれない。

経恭は京都帝国大学卒で「華族中の秀才で『謹厳の誉れ高き紳士』でもあった。(中略)八郎右衛門は持参金三十万円(編集部註:当時の人件費に換算し約7億7670万円)をつけ、新邸宅を準備すると言い、『華族中の大評判』となる(大正2年2月4日付『神戸又神』)。この話は山口愛川(『横からみた華族物語』昭和7年、35頁)によっても『金満家の娘を五十万円の持参金付で夫人に迎へ、その夫人の金で新婚旅行の足を欧米にまで延ばした中御門経恭侯』と触れられている」(『明治・大正・昭和 華族事件録』)。

中御門経恭
長女が嫁いだ中御門経恭の写真『貴族院要覽』昭和21年12月増補改訂(貴族院事務局)、1947年4月25日。国立国会図書館デジタルコレクション(写真=作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

次女は「五摂家」の鷹司家へ

次女・裕子とみこ(1897〜1986)は1918年に公家の男爵・鷹司信熙たかつかさのぶひろ(1892〜1981))に嫁いだ。いうまでもなく、鷹司家は「五摂家」の一つで公家の最高位にある。信熙は公爵・鷹司熙通(1855〜1918)の次男として生まれ、1905年に分家して男爵を授けられた。陸軍士官学校を卒業。1912年に陸軍歩兵少尉に任じられ、中尉、陸軍士官学校教官、砲兵中佐を歴任した。

信熙の母・順子は徳大寺実則の長女なのだが、徳大寺家は豪商・資産家と積極的に婚姻を結んだことで知られる。末弟の隆麿を富商・住友家の婿養子に出しているのだ。また、実則の三女・蓁子しげこ(1874〜1925)が、高棟の甥・三井高縦たかなお(1869〜1910)に嫁いでおり、前例があった。

五女・祥子さきこ(1907〜)は1929年に公家の子爵・高辻正長(1903〜1954)に嫁いだ。正長は、鷹司信熙の義兄・上杉憲章の甥にあたる。

【図表2】日本の旧華族「五爵制度」
プレジデントオンライン編集部作成
1884年(明治17年)の華族令による序列