明治時代に岩崎弥太郎が創業し、現在でも日本経済界を席巻する三菱グループ。系図研究者の菊地浩之さんは「弥太郎と弟の弥之助、2つの家の嫡男がまるで卓球のダブルスのように交代でトップに立ってきた。そのシステムが他の財閥より優れていた点もある」という――。
※本稿は、菊地浩之『財閥と閨閥』(角川新書)の一部を再編集したものです。
三菱総裁・岩崎弥太郎の婚姻戦略
青年期の岩崎弥太郎は不遇で、郷士の家格に回復するのが数え年の28歳、翌年に郷士の娘と結婚し、長女が生まれた時にはすでに31歳になっていた。
弥太郎には少なくとも4男5女がいたが、52歳で死去してしまったので、生前に結婚したのは長女だけで、子女を通じて閨閥をつくる時間がなかった。弥太郎の子女の婚姻は、亡兄の遺志を継いだ弟・岩崎弥之助に委ねられた。弥太郎の生前に実現した(と思われる)婚姻関係については以下の通り。
・1874年、弟の弥之助(24歳)が後藤象二郎の長女と結婚。
・1878年、姪が郵便汽船三菱会社管事・荘田平五郎(32歳)と結婚。
・1878年、従姉妹が同社吉岡鉱山事務長・近藤廉平(31歳)と結婚。
なお、弥太郎死去の翌年の1886年、長女・春路(春治とも書く。23歳)が加藤高明(27歳)と結婚している。
弟・弥之助は後藤象二郎の娘と
以上の事例から、生前の弥太郎の描いた婚姻戦略が朧気ながら浮かび上がる。
まず、実弟・弥之助の結婚は、旧土佐藩「上士」の名門である後藤家と結びつき、家格上昇を狙っている。しかし、その一段上にある大名華族・公家華族といった家系が視野に入っていない。次いで、娘たちの結婚であるが、荘田平五郎、近藤廉平、加藤高明はともに当時三菱の従業員だった。結婚を通じて、三菱に勤める前途有望な若者を一族に取り込もうとしたのだろう。


