岩崎家躍進の理由「大家族主義」

これらの婚姻戦略が成立するためには、大家族主義という前提があった。

岩崎家が「弥太郎、弥之助及び吉村(弥太郎の姉の婚家)、藤岡(弥太郎の妹の婚家)、豊川(弥太郎の母の実家)の諸家は、皆一家の扱ひで」(『岩崎弥之助伝』)家計も一緒だったので、弥太郎が姪や従姉妹を婚姻戦略に総動員できたのだ。

岩崎弥之助の肖像写真
弥太郎の弟・岩崎弥之助の肖像写真、1896年、雑誌『太陽』第2巻第24号(博文館)(写真=博文館/Public domain/Wikimedia Commons

岩崎弥太郎は4人兄弟(2男2女)の長男で、姉1人、妹と弟が1人ずついた。

姉・琴(のちに辰と改める。1832〜1892)は評判の美人で、土佐福井村の郷士・吉村喜久次直茂と結婚した。夫婦には一人息子・吉村可成がおり、三菱の鉱山で一時期働いていたが、周囲とあわず退社してしまったらしい。

妹・さき(1838年生まれ)は土佐藩士・藤岡善吉正敏(正雄とする書もある)と結婚した。善吉の父・藤岡善之進の後妻は吉村直茂の叔母であり、吉村の薦めで藤岡との縁談が進んだという。

「茅町家」と「高輪家」が交代で

ここで、岩崎一族の家族構成を解説していこう。岩崎家は、「茅町家かやちようけ」と呼ばれる岩崎弥太郎の家系、「高輪家たかなわけ」と呼ばれる岩崎弥之助の家系から構成されている。

三菱財閥の特徴は、両家の当主が交代で財閥本社の社長を務め、もう片方の嗣子が副社長となって備えていることである。すなわち、初代が弥太郎、2代目が弥太郎の弟・弥之助で、3代目が弥太郎の長男・久弥、4代目が弥之助の長男・小弥太である。小弥太社長の時、終戦を迎えたが、副社長は久弥の長男・彦弥太だった。

【図表2】岩崎家略系図
出典=『財閥と閨閥

嫡男が財閥トップになる

武士階級では長子単独相続が一般的であったが、土佐は特に「庶嫡の別」(長男とそれ以下の区別)が厳しいといわれている。そのため、岩崎家では、両家の当主とその嫡男しか、財閥本社や分系会社の役職に就かなかった。

たとえば、弥太郎には4人、弥之助・久弥はいずれも3人の男子がいたが、長男以外は三菱合資会社(以下、三菱合資という)に入社していない。三井家や安田家は分家筋の「うるさ型」によって経営が混乱し、専門経営者が戦後に財閥家族を避け、そのせいもあって企業集団への再編が遅れた(もしくは実現しなかった)が、三菱・住友・古河家は財閥家族と専門経営者の仲が良好のまま戦後を迎え、戦後も問題が少なかった。