当主の子以外は「弥」が付かない
岩崎家の系図を注意深く見ると、かれらの名前にある法則があることに気付く。岩崎家では代々「弥」の一字を名前に付けているが、当主の子以外は「弥」を付けることを遠慮している。たとえば、岩崎康弥(弥太郎の三男)の子は精一郎・久米次郎・直三郎・友四郎、岩崎隆弥(久弥の次男)の子は東一、岩崎輝弥(弥之助の三男)の子は毅太郎・英二郎である。
ここにも「庶嫡の別」を全うする岩崎家の家風がしのばれる。
興味深いことに、弥太郎の姪と結婚した荘田平五郎、弥太郎の従兄弟・豊川良平、豊川の妹と結婚した近藤廉平は、いずれも長男(荘田達弥・豊川順弥・近藤滋弥)の名に「弥」の一字を付けている(次男以下には付けていない)。これはかれらが岩崎家の一門待遇だったことを示している。
弥太郎の長男・久弥の妻は…
岩崎久弥(1865〜1955)は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村で生まれた。1875年に11歳で慶應義塾幼稚舎に入学。三田三丁目に家を借り、豊川良平・藤岡歓次と同居して通学した。1878年、父・弥太郎が三菱商業学校を開設し久弥は同校に転校。1885年2月、父・弥太郎が死去。社長には叔父・岩崎弥之助が着任。
翌1886年5月、久弥は、弥之助の勧めによって米国に留学した(一説にはトーマス・グラバーの勧めともいう)。米国に渡った久弥は、2カ年の準備の後、1888年に米国ペンシルベニア大学商学部に入学し、1891年5月に卒業。同年10月に帰国、11月に三菱社副社長に就任した。1893年12月、弥之助は三菱社を廃止し、岩崎久弥との共同出資により、資本金500万円の三菱合資を設立。同社社長に久弥が就任した。29歳だった。
徳川家にもつながる旧大名の令嬢
岩崎久弥は1894年に弥太郎と同郷の政治家である田中光顕(子爵)の媒酌で、旧上総飯野の藩主・保科正益の長女、寧子(1874〜1944)と結婚。側妻はいなかった。寧子は常に子女たちに「自分の生涯で最も幸福に思ふことは、夫が〔側妻を囲ったりせず〕家庭を清潔にしてくれたことであった。自分はこれを何よりも感謝してゐる」(『岩崎久弥伝』)と語り、子女たちも「お父さまは木か石のような〔堅物の〕方ですね」(『岩崎久弥伝』)と冗談をたたくほどであった。

