見合いした以上、断れない縁談
久弥の見合いの席をセッティングしたのも光顕で、介添の豊川良平は久弥に「今日、会つた上は否応はいへません。その覚悟で行つて下さい」(『岩崎久弥伝』)と声をかけて送り出したという。
次男・三男・四男はどうなったか
長男・久弥は大名華族の令嬢と結婚したが、次男以下の息子たちは婚姻関係に特段の配慮がされなかったようだ。また、かれらはいずれも三菱には勤めていない。
次男・岩崎秀弥(1880〜1911)は東京高等師範学校附属中学校、英国ケンブリッジ大学に学び、富士瓦斯紡績に勤務した。父・弥太郎譲りの豪快俊敏な性格で、将来を嘱望されたが、32歳の若さで病死した。妻子の存在は伝わっていない。
三男・岩崎康弥(1882〜1960)は東京高等師範学校附属中学校、英国ケンブリッジ大学に留学、牧畜業を学び、帰国後、駒沢に農園を開業。園芸乗馬に秀で、東京毛布株式会社の取締役を務めた。夫人は松山棟庵の四女・とし子(1887〜1968)。
四男・岩崎正弥(実際は昌弥だったらしい。1882〜1937)は東京高等師範学校附属中学校、米国モルガン大学に学び、1911年に帰朝。翌1912年、兄・久弥は正弥のために千葉県印旛郡(現・富里市)に末廣農場を開き、正弥に経営を委ねた。しかし、採算度外視の高品質農場はたちまち経営に行き詰まり、1915年、正弥は東京イーシー工業(のち三菱電機に吸収合併)取締役に転じた。ちなみに末廣農場は、その後久弥が再建した。夫人は能勢辰五郎の長女・こま(1888〜1991)。
養子「豊弥」に込められた意味
養子・岩崎豊弥(1875〜1926)は、弥太郎と昵懇だった郷純造の四男で、たまたま両者が汽車で乗り合わせた時、郷に子どもが産まれたという話となり、これを聞いた弥太郎が「僕にくれぬか」と申し出、即座に養子縁組が成立したのだという。英国ロンドン大学・ケンブリッジ大学に学び、日本セルロイド人造絹糸の取締役を務めた。夫人は大和郡山藩主で伯爵・柳沢保申の三女・武子(1891〜1934)である。
なお、秀弥と康弥の名前は「秀吉」「家康」から一字ずつ取ったといわれている。また、養子の豊弥は、旧主である土佐高知藩主・山内家が代々諱に使ってきた通字「豊」の字を用いており、江戸時代に土佐では憚かられたことである。それを意識してわざと命名したといわれ、ここにも弥太郎の気の強さがうかがわれる。



