劣等感のなかった信長の弊害
相手の気持ちがわからない、というある種、致命的な欠陥は、織田信長にもありました。
その証拠に、信長は一番信頼していた部下の明智光秀が、限界まで疲弊していることに、まったく気づけませんでした。
信長は劣等感がない人物だったため、常に自分を基準に物事を考え、判断してしまい、大きな仕事を次々に与えることは相手のやりがいになる、としか考えられなくなっていたのです。
これは父である信秀が、短所に目をつぶって教育したことの弊害といえます。
ついにストレスが、我慢の限界を超えた光秀が、「本能寺の変」を起こしてしまったのは、ご存知のとおりです。“三日天下”(実際には11日間)といわれるように、短い天下取りに終わったのは、この事件が計画性のない、突発的に決断されたことを物語っていました。
豊臣秀吉は、こうした信長の様子を見て反面教師とし、成長した人でした。
秀吉は、信長の人の気持ちに寄り添えない態度や、あまりに容赦のないやり方を見て、自分は同じ轍は踏まないように、と常日頃から考えていたのです。
信長は逆らう人間を一族郎党まで皆殺しにし、ときには降伏した相手さえも許さず、討ち滅ぼして天下統一へと邁進しました。
逆に秀吉は、降伏した相手を受け入れ、領土もできるかぎり削らずに許しました。
それどころか、自分を嫌い、馬鹿にしつづけていた織田家での同僚・佐々成政に対してさえ(そうであるからこそ)、度々の降伏を許し、自分に従って手柄を立てれば肥後国(現・熊本県)一国を与えて、出世させたほどでした。秀吉は、信長が天下布武に失敗したありさまから学び、自分に活かしたと考えられます。
これは余談ですが、筆者はときに、人の能力・性能にのみ評価が集中した信長が、AIに重なって思えるときがあります。
天下一の技量があっても師に向かない理由
織田信長と同様に、剣豪・宮本武蔵もまた、自らが強くなることに主眼を置いていたため、人に教えるという師には向いていなかったように思われます。
武蔵個人は文句なく強い剣客ですが、個人として剣の道を極めることに熱心なあまり、彼は人に教えることには興味を示しませんでした。そのため、武蔵のもとでは優れた門人がさほど育っていません。
武蔵は13歳で新当流の使い手・有馬喜兵衛に勝利し、生涯で60度を超える仕合を行いながら、ただの一度も敗れなかった、と自らが語っています。20代最後の仕合である小倉・船島(現・下関市)での巖流・佐々木小次郎との決闘を、知る人は多いでしょう。
しかし武蔵の二天一流は柳生新陰流や一刀流のように、大きな門葉(一門)を広げることはありませんでした。門人に数を求めなかったことは間違いありませんが、武蔵につぐ、あるいは並ぶほどの使い手が、二天一流からはついに出ませんでした。
なぜ、これほど天下一の技量がありながら、武蔵は良き師匠になれなかったのでしょうか。それは武蔵自身が、自分の師と「正しい関係」を築けなかったことに、そもそもの起因がありました。
子供の頃の宮本武蔵が剣術を習った師匠は、父の無二斎でした。

