浅井長政が自刃した場所

ところで、京極丸の西側には石垣で固められた(崩されているが)、厳重な枡形虎口(敵を直進させないために、2つの門の間に四角い空間を設けた虎口)がある。この虎口は山麓の清水谷をさらに奥に進んだ「水の手」につながっている。

秀吉は天正元年(1573)8月27日、3000ほどの兵を率いて清水谷から水の手の急傾斜を登って、この虎口を急襲。本城を、先ほど見た大堀切を境に、父の久政が守る小丸中心エリアと、長政が守る本丸中心エリアに分断した。父子それぞれがどのエリアに拠点を置くか、城の構造とともに知っていればこその作戦で、さすが秀吉とうならされる。

結果として、久政はその日のうちに自害に追い込まれた。こうなると長政も抵抗する術がない。9月1日には本丸が占拠されてしまったので、黒金門の手前、首据石の脇から大広間と本丸の東下に位置する赤尾屋敷に回り込み、自害したと伝えられる。これをもって小谷城は完全に落城した。

これに先立ち、市と3人の娘たち、茶々、初、江は、大広間から脱出したのだろうか。

浅井長政が切腹したという赤尾屋敷。
筆者撮影
浅井長政が切腹したという赤尾屋敷。

役に立たなかった朝倉氏の最新技術

ここまでの最高所は山王丸の標高約400メートルだが、小谷城はこれだけでは終わらない。西側の尾根伝いも小谷城だ。山麓から見上げたとき、三角に尖って見える標高495メートルの山頂には「大嶽」がある。

東側の本城は山王丸の北に、寺院が建ち並んでいた「六坊」がある。そこから直線距離で約500メートル。山をある程度下ってから急斜面を登っていくので、大嶽にたどり着くのはかなりきつく、訪れる人はあまりいないようだ。

大嶽へ登る途中から本城がある東の尾根を見下ろす。
筆者撮影
大嶽へ登る途中から本城がある東の尾根を見下ろす。

大嶽は土塁で囲まれた主郭を中心に、曲輪が段々状に造成され、横堀がめぐり、斜面には竪堀を掘って敵の侵入を防いでいる。ここだけで独立したひとつの城のようだ。久政の父の亮政が小谷城を築いた当初は、ここが小谷城の中心だったと考えられている。ただし、政務や生活の中心は山麓で、大嶽はあくまでも詰の城だったのだろう。さすがにこの険しい山頂に住むというのはきつすぎる。

土塁に囲まれた大嶽の主郭。
筆者撮影
土塁に囲まれた大嶽の主郭。

ここから西側の尾根伝いを南に下っていくと、途中に「福寿丸」、続いて「山崎丸」という大規模な曲輪がある。これらは石垣が積まれていない代わりに、土塁と空堀に横矢掛(防塁を折り曲げて敵を横から攻撃できるようにした仕かけ)がたくさん設けられ、斜面には敵の横移動を防ぐ縦堀も数多く設置されている。

朝倉氏が築いた塁が曲げられた土塁と横堀。
筆者撮影
朝倉氏が築いた塁が曲げられた土塁と横堀。