市や茶々が生活していたと考えられる場所
城郭が築かれた馬蹄形の小谷山の南麓は、谷が深く入り込んでいる。ここ「清水谷地区」は今では木が生い茂り、地面は湿地のようにぬかるんでいるが(水が豊富に湧き出るようだ)、往時は道の両側に重臣の屋敷がズラリと並んでいた。
その一番奥は「御屋敷」と呼ばれる。もちろん浅井氏の当主の居館跡で、主に公的な接待などがここで行われたと思われる。足利義昭を饗応したのはここで、「豊臣兄弟!」第12回のように信長をもてなしたなら、やはりここだったのだろう。
案内板には「お市の方とその子供達もこの館で暮らしたと思われる」と書かれている。ここに暮らしたのか山上で暮らしたのか、説が分かれるが、浅井長政が信長に反旗をひるがえす前は、市や娘たちはここにいたのかもしれない。いまは鬱蒼たる森だが、そのころは木々が伐採され、光がよく差し込んだはずだ。
清水谷の入口まで戻り、東側(谷の奥に向かって右側)の尾根上へ登っていこう。この尾根全体が小谷城の「本城」(主要部)」にあたる。ジグザグの山道をしばらく登ると、尾根の最先端に設けられた「出丸」がある。2段の曲輪(造成した平坦地)とそれぞれを囲む土塁が見事に残る。
ここからが本格的な山道で、直線で800メートル近く登ると、本城の入口の「番所」跡にたどり着く。
裏切り者の首を置いた「首据石」
本城の中心部はまだ先だが、150メートルほど登ると、「御茶屋」「御馬屋」「桜馬場」という規模の大きな曲輪が階段状に連なっている。いよいよ城内に突入である。御茶屋や桜馬場の一部では木々が伐採され、山上からの眺望のよさに驚かされる。浅井氏はその後、周知のように同盟を結んでいた信長に逆らい、天正元年(1573)に攻め滅ぼされる。そのとき信長や秀吉が陣を構えた南側の虎御前山も一望のもとだ。
城が機能していた時代には、周囲の木々は伐採されていた。だから、どこからでも近江一帯が見渡せ、敵が陣取る虎御前山の様子もつぶさに見てとれただろう。筆者はもっと木を伐採し、かつての城内の眺望を取り戻したほうが、城の価値が高まると考えているが、こうして若干でも周囲を見下ろせると、戦国大名が山城にいた意味がじつによくわかる。
桜馬場の東下には「馬洗池」、その北には「首据石」が残る。馬洗池は実際には馬を洗ったのではなく、桜馬場東側の石垣を敵が上るのを防ぐ水堀だったと考えられている。ちなみに城内の各エリアの呼び名は、ほとんどが江戸時代の絵図などにもとづいていて、浅井時代の機能を表しているとはかぎらないのだ。首据石は、六角氏に内通した家臣の今井秀信の首をここにさらしたと伝わる。





