今はクワガタが本丸の主
桜馬場から北へ登るには、城の中枢への入口だった「黒金門」をとおる。巨石がゴロゴロ転がっているが、これは小谷城を廃城にする際、秀吉が破城(城を破壊すること)を行った痕跡で、敗者への懲罰の意味もあったと思われる。城が現役のころは、訪れた人を威圧する巨石が積まれていたはずだ。城内のあちこちに大小の石が転がっているが、それらも多くは秀吉が崩した石垣の痕跡だ。
黒金門の先は南北85メートル、東西35メートルと城内で最大規模の曲輪がある。「大広間」と呼ばれ、清水谷の御屋敷と並ぶ浅井氏の居館の跡だとされる。
2棟の御殿のほか蔵や井戸の跡が見つかり、蔵の跡からは銅鏡や化粧用具、陶器などが数多く出土した。銅鏡といえば、「豊臣兄弟!」第11回で市が所有していたものが頭に浮かぶ。嫁いだ最初からか、夫が信長に反旗をひるがえしてからか、いずれにせよここに市がいたのはまちがいない。ここで生まれた娘もいたのだろう。
大広間の北辺には石垣が残り、その上の一段高所が「本丸」だ。3棟以上の建物跡が見つかっていて、ここにも御殿があったようだ。本丸周辺にはクヌギの木が多い。夏の朝に訪れれば、おそらくミヤマクワガタがたくさん採れる。それでも、城を城らしく見せるには伐ったほうがいいんだよなあ、などと考える。
秀吉が破壊した名残の巨石
さて、本丸からさらに北に向かうと、巨大な堀切(尾根筋を断ち切る空堀)で遮られている。そうなのだ、小谷城の本城は、この大堀切を境にして南北(上下でもある)に二分されているのだ。北(上)側は「中丸」「京極丸」「小丸」「山王丸」と曲輪が連なっている。
中丸は南北三段からなり、あちこちに石垣が現存する。その北の京極丸は、近江の守護だった京極氏の居所として設けられたといわれ、複雑な構造で石垣と高い土塁で守られていた。その北側の一段高い曲輪が、浅井長政の父の久政が隠居後にすごした小丸だ。
その北の山王丸は本城全体の詰の城(最後の防衛拠点)で、南側の虎口(城の出入口)にも巨石がゴロゴロしている。秀吉による激しい破城の痕跡だ。一方、曲輪の東側斜面には高さ5メートルの大石垣が崩されずに残っている。陰の部分だったので気づかれなかったのか。かつての小谷城は、こういう石垣が広範囲に積まれていたのだ。





