父と息子の限界
2020年春。ふだん、木梨不二雄さん(当時60歳)が仕事から帰宅すると3年前にアルツハイマー型認知症と診断された妻(同58歳)は「おかえり」と言いながら玄関まで出てくる。だが、その日は出てこなかった。
木梨さんがリビングに行くと、妻が車椅子の次男(26歳)の前に、無言で立っていた。
聞くと、妻は
「噛みつかれた」
と言いながら腰を抑える。
服をまくると、うっすら血が滲んでいた。
すると次男が静かに口を開いた。
「何度もやめろと言ったのに、聞いてくれなかったから……」
次男によると、鍋を火にかけていた母親が、火そのものや五徳、鍋の熱いところを触ろうとし、何度注意してもやめない。
「危ない! 火傷する!」次男は、とっさに母親の腰のあたりに噛み付くしかなかった。車椅子の彼の目の前にあったのは母親の腰であり、両手は車椅子を操作するために塞がっていた。
木梨さんは、「こんなひどいことをするなんて」と憤る妻に
「息子には注意しておくよ。ただ、誤って火傷してしまうと危ないから、家事を支えてくれるサービスを探そう」
と提案し、次男には、
「母さんのことを任せきりにして悪かった。でも理由はどうであれ、けがをさせるのはいけない」
と注意した。
「とてもつらい出来事でした。自分を責め、妻にも次男にも、謝っても謝りきれない思いでした。しかしあの時、その裏側にある2人の心の中が見えたのです」
障害のある次男と認知症の妻
木梨さんは、「それまでの私は、『認知症とその介護』という表向きのとらえ方しかできていませんでした」とつらそうに話す。その理由をこう続けた。
「妻は、危険を察知する認知機能が低下していて危ない状況ではありながらも、家族のために温かいご飯を作ろうと必死だったのです。それを『危ないからやめろ』と言ってしまえば、妻の家族への愛情は報われません。
一方で、次男は『危ないからやめろ』と必死で止めました。次男は、母を守ろうとしたのです。言葉では母に伝わらず、自分には障害があるため、止めるためには噛みつくしかなかったのだと思います。
あの時、私が妻と次男に言ったこと自体は間違っていなかったのかもしれません。でも、その行動の裏にある、妻の『家族に料理を作りたい」という愛情。次男の「母を守りたい」という愛情。その二つの気持ちはどうなるのでしょうか。私の言葉によって、2人の大切な気持ちは否定されてしまったのだと思います。
夫として親として、何ということを言ってしまったのか。私は自分を責め、2人に心から謝りたいと思いました。
そして、このようなことは二度とあってはいけない。大切な二人に、これ以上心の負担をかけてはいけない。そう強く感じ、介護サービスの利用を真剣に考えるようになりました」
木梨さんは、翌日、包括支援センターを訪ねた。
「ふだんは穏やかで忍耐強い次男が、妻を噛んでしまうほどに追い込まれていた……。もっと早く察してやるべきでした。妻に対しても、次男がどれほど支え続けてくれていたかを、もっと丁寧に話してあげればよかった。次男が妻を噛んだのは『攻撃』ではなく『助けてほしい』という心の叫びだったのだと思います」
前回と同じ看護師に、妻が、家事ができなくなっていることや、障害のある次男のこと、そして木梨さん自身、仕事が終わると買い物をしてから帰宅して、夕食の支度をしているため、心身ともに限界を迎えていることを伝える。
すると、その場で仮介護保険証を渡され、小規模多機能型居宅介護を勧められた。
早速、近くの施設に相談に行くと、その日の夕方にはスタッフが来て、夕食の準備を手伝ってくれることになった。
「名前だけではよくわかりませんでしたが、『必要な時に必要なサービスが使える仕組み』だと聞いて少し安心しました。火の取り扱いを心配せずに済み、息子の負担も軽くなる。ひとまず胸をなでおろしました」
そして妻と相談し、介護認定調査を受けると、結果は「要介護1」だった。

