新卒で就職したSE職はわずか1カ月で辞めた。その後もバイトを転々として、ライブチャットに月30万円も浪費し、最後は生活保護を受給。だが、7年後、自立した生活ができるように。なぜ、人生を再生できたのか。フリーランスライターの旦木瑞穂さんが取材した――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】中部地方出身の安藤鈴太郎さん(仮名・30代)は、海辺の田舎町で魚屋を営む両親のもとに生まれた。両親も安藤さんも3歳下の妹も無口で、父方の伯母からは「あなたたちの家族関係は、何だか情が薄いよね」と言われた。やがて小学校に上がった安藤さんは、授業中じっとしていることができず、隣の子に話しかけたり、立ち歩いたり。成長とともに座っていられるようになり、大学へ入学。一人暮らしとアルバイトを始めたが、作業をしながら会話することができない自分に気づく。テレビで知った「ADHD」を疑って発達検査を受けると、精神科医から「境界知能」と告げられた――。

就職して1カ月で退職

知能検査を受けた後、大学の同級生たちの姿が「境界知能」と告げられた自分とは異なり、眩しく映るようになってしまった安藤鈴太郎さんは、友人・知人たちを避けるようになり、卒業できる単位を取るだけのために大学にひっそり通う、“半引きこもり”のような状態になってしまった。

そして大学4年性になっても、就職活動に身が入らなかった。すると5月頃、大学の就職センターは、一向に就職先が決まらない安藤さんに、地元のIT企業を勧めた。促されるままに面接を受けると、SEとして採用が決まった。

子どもの頃から「理系が不得意だった」と語っていた安藤さん。IT企業でSEとして働くよりも英語力を活かす仕事のほうが良かったのではないか。

「全教科の中では英語が一番得意だったので入った大学でしたが、いざ通ってみると、自分より英語ができる人はいっぱいいて、『僕なんて全然英語ができる方でもなんでもないな。もう英語はいいかな』ってぱたっと興味がなくなっちゃったんです」

採用先のIT企業では、入社後1〜2年は東京の関連会社で研修を受けることになっていた。そのため安藤さんは、大学を卒業すると、東京に出て一人暮らしをしながら、関連会社での研修を受け始めた。

田舎育ちの安藤さんにとって、約1時間の通勤、他人との距離が近すぎる満員電車だけでも、かなりのストレスだった。

「同期の人たちは、当然ながらみんなIT関係の勉強をしてきた人ばかりでした。中国からの研修生もいました。先輩社員が先生になって、イチからITの基礎をみっちり教え込まれるのですが、まずは基礎の基礎である二進数(2進法)の計算を教わったり、パソコンの内部をいじったりという日もありました。毎回1日の終わりにテストがあるのですが、だんだんついていくのがしんどくなってきいきました。たぶん、精神的ストレスからくる多汗症だったんだと思うんですけど、1カ月経つ頃には手汗がすごくて、もう、『ちょっと無理かな』って思うようになっていました」

ベッドに差し込む陽の光
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社長と専務が来た

体調にも変化が現れ始めた。大学時代のアルバイトで経験したものと同じ変化だった。

「最初は軽いめまいでしたが、だんだん立っていても歩いていてもふらつくようになり、とても会社に行ける状態ではなくなっていました」

2度目の欠勤をした日、会社の社長と専務が安藤さんのアパートを訪れた。何もする気が起きなかった安藤さんは、目は覚めていたが、布団の中で横になっていた。

「社長と専務が来た日、僕はその場で自分の気持ちを正直に話しました。もう続けるのは難しいこと。そして、その理由の一つに発達障害のことがあるということ。退職したいという意向を話しました。すると社長は、半分怒っているような強い口調で言いました。『そんな大事なこと、なんで面接のときに言わなかったんだ』と。僕は何も言い返せず、ただ謝ることしかできませんでした」

こうして安藤さんの社会人生活は、1カ月を待たずに幕を下ろした。