主君・信長の死を聞きつけた秀吉は「中国大返し」を行って山崎の合戦で明智光秀を破った、とされる。その定説が崩されようとしている。歴史評論家の香原斗志さんは「中京大学の馬部教授の最新研究で、その伝説が覆る可能性が出てきた」という――。
狩野随川筆「豊臣秀吉画像」名古屋市秀吉清正記念館蔵
狩野随川筆「豊臣秀吉画像」名古屋市秀吉清正記念館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉は「山崎の合戦」に間に合わなかった?

羽柴秀吉ならではの常軌を逸した能力とパワーの象徴で、その後、天下一統を成し遂げるうえで、いちばん重要なポイントになったと語られるものに「中国大返し」がある。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとき、秀吉は弟の秀長とともに毛利攻めの最中で、備中高松城(岡山市北区)を水攻めにしていた。信長自身による援軍も予定されていたので、秀吉は畿内との緊密な連絡網を築いており、そのおかげで翌3日夜には急報を受けたという。

秀吉は翌4日、毛利家と急いで和睦を結び、城主の清水宗治の切腹を見届けて水攻めの包囲を解除。翌5日から秀長らとともに進軍を開始し、12日には摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)を治める池田恒興らと合流。13日には山城国南部の山崎(京都府大山崎町)に布陣した――。これが「中国大返し」で、秀吉はこの史上屈指の大強行軍を成し遂げた末に、山崎の戦いで光秀の軍を打ち破ったとされる。

進軍のスピード自体は、当時の常識に照らして、必ずしも速いとはいえないが、2万といわれる大軍勢での移動だから、それがこの速度で戻ってくるとは光秀側は予想しておらず、大きな動揺につながったとされる。

ところが、「中国大返し」の伝説がひっくり返ってしまう、とんでもない文書が見つかったというのである。