高山右近は「羽柴軍の遅延」を見ていた
フロイスの『日本史』には、次のように書かれている。
「明智は都から一里の鳥羽と称する地に布陣し、信長の家臣が城主であった勝竜寺と称する、都から三里離れた非常に重要な一城を占拠していた。彼はその辺りにいて、自分の許に投降して来る者たちを待機するとともに、羽柴の出方を見きわめようとした。(中略)当時、彼は八千ないし一万の兵を有していたであろう。そして津の国(註・摂津国)の者たちが、予期したように、自分に投降して来ないのを見ると、彼は若干の城を包囲することを決意して、高槻に接近していった」
「同国(註・摂津国)の三名の重立った武将は、羽柴がもはやさほど遠くないところまで戻って来ているとの希望のもとに出陣し、軍勢を率い、山崎と称せられる非常に大きく堅固な村落まで進んだ」
続いて、摂津の3名の間には、中川清秀が山の手に、池田恒興が淀川沿いに進軍し、高山右近は山崎の村の間に留まるという協約があったと記され、こう書かれている。
「ジュスト(註・高山右近)が村に入り、明智がすでに間近に来ているのを知ると、まだ三里以上も後方にいた羽柴に対し、急信をもってできうるかぎり速やかに来着するようにと要請した。(中略)右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた。そこで右近殿はこの上待つべきではないと考えた」
こうして右近は1000名余りの兵とともに敵をめざして突撃したという。
清須会議にいた「宿老」の謎
「この最初の衝突が終わると、ジュストと間隔を置いて併進して来た二人の殿たちが到着した。そこで明智方は戦意を喪失し、背を向けて退却し始めたが、敵方がもっとも勇気を挫かれたのは、信長の息子と羽柴が同所から一里足らずのところに、二万以上の兵を率いて到着していることを知ったことであった。だがこの軍勢は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりに到着しなかった」
中国大返しに明智方が動揺したのはまちがいなさそうだが、やはり無理があって、軍勢は疲労困憊したのだろう。山崎の合戦で光秀の軍勢を破ったとされる秀吉も、信長の三男の信孝も、戦いの現場にはいなかった、と書かれている。そしてこのフロイスの記述は、発見された秀吉の書状の内容と、ピタリと符合するのである。
すると、もうひとつの疑問も解けることになる。
光秀が討たれて2週間ほど経った6月27日、清洲城(愛知県清須市)で、今後の織田政権の運営方法と所領の配分を決める、いわゆる「清須会議」が開かれた。そこでは、信長と一緒に討たれた信忠の嫡男、つまり信長の嫡孫である幼い三法師を当主に立て、今後は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人の「宿老」による話し合いで、政権を運営していくことに決まった。

