山崎の戦いの真の勝利者

だが、信長の宿老と言えば、少し前までは柴田、丹羽のほかは、佐久間信盛と滝川一益だった。だから、今後の政権運営に柴田と丹羽が関わるのはいい。秀吉もすでに宿老と言っていい立場にあり、(山崎の戦いに間に合わなかったにせよ)光秀討伐を主導したのだからいい。では、どうしてもう1人が池田恒興なのだろうか。

佐久間は本能寺の変の2年近く前に追放されていた。滝川はこのとき関東にいたため清須会議に間に合わなかった。そういう事情はあるにせよ、池田恒興の名がいきなり浮上したのには違和感があった。摂津の伊丹城(大阪府伊丹市)などをまかされた有力武将ではあっても、中堅の域を出なかったからである。

しかし、秀吉が遅参した状況で、彼が中心になって光秀の軍を破ったのであれば合点がいく。フロイスが書く摂津の「三名の重立った武将」の残り、中川清秀と高山右近は、恒興が説得して、光秀に加担させないようにしていた。フロイスは「津の国(註・摂津国)の者たちが、予期したように、自分に投降して来ない」と、光秀の誤算について書いていたが、これも恒興の功績なのである。

池田恒興〔狩野家狩野尚信(鳥取県立博物館)の画を孫の狩野甫信(狩野常信三男)が写したもの〕
池田恒興〔狩野家狩野尚信(鳥取県立博物館)の画を孫の狩野甫信(狩野常信三男)が写したもの〕(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

つまり、池田恒興が山崎の戦いの勝利者であるなら、清須会議での厚遇は当然である。

それにしても、444年も経って自分の失態がバレるなんて、秀吉も悔しいだろう。彼には絶対に隠したい事実だったはずだから。だが、1つの書状が見つかっただけで大きく書き換えられるから、歴史はおもしろい。ただ、もう1つ指摘しておきたい。宣教師は書いていたのである。宣教師の記録がどういう性質のものなのか、しっかり考えて読めば、見えてくることがもっとあると思うのだが。

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