書状に書かれていた衝撃の事実
問題の文書は、中京大学の馬部隆弘教授(日本中近世史)が令和6年(2024)に古書店で入手したという秀吉の書状で、合戦があった6月13日の日中、山崎からは12キロほど離れた富田(大阪府高槻市)で書かれたものいう。配下の小寺職隆らに宛てたもので、「明日、西岡に出陣し、陣を構える」と記されている。
「西岡」とは、光秀が山崎での敗戦後に逃げ込んだ勝龍寺城(京都市長岡京市)がある地域を指す。たしかに、光秀は本能寺の変後に勝龍寺城を占拠し、決戦前日の12日も、池田恒興らによってこの城に追い込まれていた。だから、秀吉は14日に、勝龍寺城にいる光秀を攻めるつもりだったのだろう。
ところが、秀吉の予想に反して、光秀は13日に打って出てしまったというわけだ。この書状の通りなら、光秀の軍勢は池田恒興らの軍勢に敗北。勝龍寺城に逃げ込むが、再起するために抜け出して本拠地の坂本城(滋賀県大津市)に向かおうとして、途中で落人狩りに遭って命を落とした、ということになる。
つまり、秀吉は備中高松城から富田のあたりまで「大返し」したのはいいが、肝心の合戦には全然間に合わず、まったく参戦していなかったということだ。光秀を動揺させた功は大きいにせよ、秀吉の軍勢が山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破ったという史実は、なかったことになるのである。
宣教師は遅参したと書いていたのに
むろん秀吉としては、決戦に自分の軍勢は間に合わず、着陣できていなかったとなれば、織田政権を簒奪するうえでウィークポイントになるし、簒奪できても沽券にかかわる。なんとしても隠したかったのではないだろうか。だから馬部教授も、合戦から4カ月後に書かれた秀吉の書状には、先に山崎に着いたことにし、遅参した事実を隠そうとして修正した形跡が見られると指摘している。
そして、秀吉がその事実を隠したいと望んでいる以上、周囲は忖度して、「秀吉は間に合わなかった」などとは、だれも書けなかっただろう。日本の同時代の史料にはそういう限界がある。ところが日本の歴史研究者は、同時代に書かれたというだけで鵜呑みにし、書かれた内容には、さまざまな意図が働いている可能性があることを、見すごしてしまうきらいがある。
だが、イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスだけは、秀吉が遅参したと書き記していた。筆者は研究者たちがその記述を無視するのを苦々しく思っていた。彼らの主張はおおむね、「キリシタンの高山右近の活躍を誇張して書くために、デマを記したと考えられる」というものだった。
たしかに、誇張や非難めいた記述はあるが、捏造はない、というのが筆者のスタンスである。宣教師は日本の権力者の「隠したい」気持ちに忖度する必要がないし、そもそも、ポルトガル語で書かれた文書を日本人は読めないので、表現に遠慮は要らない。それに、命を賭して極東まで布教にやってきた真摯な宗教者として、今後の布教活動に役立てるための記録を書いているのであり、内容を捏造したら布教活動を妨げることにつながりかねず、絶対に避けたと思われる。

