仕事ができているかという一点で評価するべき
「老害」を許容するように主張しているのではありません。歳をとれば能力が落ちるのが当然だと思われていますが、そうではないといいたいのです。
アメリカの年齢差別禁止法は明快かつユニークです。人を性別や人種で差別してはいけないのと同じように、年齢で差別することを禁じているのですが、激しい差別が堂々と行われている分野がひとつあります。能力です。
仮に20歳の人と80歳の人が同じ入社試験を受けて、80歳の人が1点でも上回っていたら、そちらを採用しなければなりません。
人種や性別のほか年齢もその人の属性で、人を属性で評価すると、ある種の予測がともないがちです。だから、それは排除しようというのです。しかし能力は属性ではないので、優劣がはっきり判定されます。
20歳の人と80歳の人の場合も、翌年には20歳の人が80歳の人の能力を上回る可能性が高いかもしれませんが、それは予測にすぎません。
翌年また試験を行って、21歳が81歳に勝てば21歳を採用できますが、結果が出る前から属性で予測してはいけません。それが年齢差別禁止法の基本です。
前述の社会学者の「87歳だからダメだ」という主張は「高齢なので衰えている」という予測にもとづいています。そうした予断は避け、きちんと仕事ができているかという一点で評価すべきです。
だから90歳でも「文藝春秋」を読める
物言う株主、アメリカの投資ファンドのダルトン・インベストメンツも、日枝さんについて「41年以上在任している取締役もいる」と指摘しました。とはいえ、彼らは在任期間に言及しても、年齢には触れていません。
アメリカでも、長く君臨している人や、引退したはずなのに人事には介入する人などは、非難の対象になります。しかし、「もう87歳なのに」という非難は許されません。
高齢になって性格が先鋭化することはあります。「頑固な人がさらに頑固になった」「威張っていた人がいっそう威張るようになった」という話は珍しくありません。しかし、性格自体はあまり変わりません。
その意味で、私は「老害」という言葉にも違和感をいだきます。日枝さんについても、亡くなった読売新聞社のナベツネこと渡辺恒雄さんについても、ご自身の性格としかいいようがないものを「老害」と呼ぶのは、高齢者差別に当たると思います。
年齢とともに記憶力は落ちます。しかし、よく知られた事実ですが、聴覚や言語、記憶、感情などをつかさどる側頭葉の機能は、認知症にならなければまず落ちません。だから90歳になっても、「週刊新潮」も「文藝春秋」も読めるのです。
要するに、高齢になっても思考力や読解力は、ほぼ落ちないと考えられています。その意味で、経営ができるかどうかという話は、その人の年齢とはまったく別の話です。

