才能のなさを呑んで埋め負のスパイラルに陥る

小ぶりのガラスコップに日本酒をなみなみと注ぎ、細く切り分けたたくあんをかじってから、表面張力でコップのフチにふんわりと盛り上がった酒を、まずはズッと啜るように、口中に含みます。かじったたくあんと、少量の酒が舌の上で溶け合って、その香りが鼻腔を抜けます。2口目からは、グイと呑む。酒が細く筋となって、喉の奥に流れ落ちていき、胃の腑がカッと熱くなる。4口ほどでコップは空になります。余計な肴は必要ありません。しょっぱい何かと酒があればそれでいい。そういう呑み方はひとをダメにします。私はどこまでも、ダメな酒呑みでした。

末並俊司(57) Shunji Suenami
末並俊司(57) Shunji Suenami
ノンフィクション作家。『マイホーム山谷』で第28回小学館ノンフィクション大賞を受賞。大学卒業後、放送作家として活動。その後ライターに転身し、介護・福祉・高齢者問題を中心に取材・執筆を続ける。最近は街歩き取材にも力を入れ始めている。

大学を出てからずっと、フリーランスで生きてきました。キャリアの始まりは、テレビ業界です。20代の後半から、放送作家のような仕事をしていました。その頃に結婚もした。30歳になった頃に息子が生まれました。大学時代に始まった飲酒グセは、その後も続きました。

当時はまだテレビが元気で、局員の財布で呑む機会も多かった。打ち合わせの後に呑み、収録の後に呑み、たいした理由もないのにまた呑む。いつの間にか酒が手放せなくなっていました。

フリーランスは昼間から呑めます。シラフで自宅を出て、局の近くのコンビニでウイスキーの水割り缶を2本ほど、会計後すぐに呑み干す。250ミリリットルと量は少ないけれど、度数は高めだから、ガツンときます。まだストロング系の缶酎ハイはなかった。もしあったらハマっていたでしょう。

家でも相変わらず呑んでいました。一升瓶の減り方が早すぎて、妻に嫌味を言われるので、ごまかすために、減った分だけ水を注いで、かさ増しをしたこともある。いい酒は水に似る、というけれど、薄めた酒を「これぞいい酒」なんてうそぶいていました。

そんな人間だから、仕事に対する姿勢もいい加減です。そもそもテレビの仕事は、私には向いていなかった。どんなVTRをつくれば伝わるのか、どんなナレーションを付ければ盛り上がるのか、よくわからないままやっていました。ディレクターやプロデューサーに叱責されることも度々でした。その憂さを晴らすためにまた呑んだ。

やがて、酒を呑んで記憶をなくすことが増え始めました。どこをどう歩いたのか覚えていないけど、目が覚めると自宅の布団にくるまっている。そんなことが何度もありました。

たまの休みに幼い息子を連れて散歩に出かけます。近所の図書館に連れて行って、絵本を選んでやり、息子がそれに集中し始めた頃を見計らって、こっそり抜け出してコンビニに駆け込み、一合サイズのパック酒を呑んだ。急いで図書館に戻り、息子を膝に抱く。後ろめたさを感じるべきなのですが、呑んでいるから平気です。「なんか臭くない?」と息子に目の奥を覗き込まれたこともありました。それでも、私は、酒をやめなかった。

思い返してみると、酒をやめられなかったのは、テレビの仕事に対する才能のなさが原因かもしれません。同じ時期に業界入りした仲間たちに置いていかれ、後輩たちにもどんどん追い抜かれていった。悔しいけれど、どうにもならない。仕事は減り、酒量が増えた。負のスパイラルというやつです。月の振込額が7万円だったこともありました。私は自分の才能に見切りをつけて、職を変えることにしました。

以前から書くことは好きだったので、その方面で何かできることはないか。ツテをたどって、職探しをしました。数カ月後、運よく当時人気だったフリーペーパーのライターとして、仕事をさせてもらえることになった。30代の半ばでした。しばらくは、テレビと雑誌の二足のわらじを履いていました。

幸い、文章を書くことは、テレビの仕事よりは向いていたようで、少しずつ仕事が増えていきました。でも酒は、相変わらず呑んでいました。

以前に比べ、仕事は増えたのですが、すぐに収入は増えません。テレビと雑誌、どっちつかずのスタンスもよくないと思い、ある時期をさかいに、テレビの仕事を整理して、雑誌やウェブ媒体など、文章を書く仕事だけに集中しました。それでもやはり、鳴かず飛ばずの毎日が続いていました。

中島らも(2004年没、享年52)という作家がいました。自身のアルコール依存症克服体験をもとにした作品、『今夜、すべてのバーで』で知られたひとです。作品の中では連続飲酒生活から立ち直っているのですが、実際の彼は、その後も呑み続けていたようです。私はこの作家が大好きで、書籍化された作品はすべて読んでいます。中島は、呑むほどに筆がすすむと言われた作家でした。実際はわからないけど、少なくとも私はそんなイメージで、彼の作品を読んでいました。彼のようになりたいと、私はどこかで思っていた。酒を呑んで酔ってこそ、スバラシイものを書く。なんてかっこいいんだ――。ところが、私は酒が一滴でも入ると、とたんにやる気や集中力を失い、仕事どころではなくなる人間です。

飲み仲間とは疎遠も「痛くも痒くもない」

ある日、いつものように深酒をして深夜に帰宅しました。そんな夫を、妻が呆れ顔で迎えました。私は嫌味を言う妻を無視して布団に潜り込みました。

しばらくして、尿意を覚え、なぜそうしようと思ったのかわからないけれど、私は自宅マンションを抜け出して、通りを隔てた公園のトイレで用を足した。気持ちよく放尿していると……。

「なにやってんのッ」

妻の怒鳴り声で夢から覚めました。

「なんてとこでおしっこしてんのよッ」

そこは公園のトイレではなく、自宅の玄関でした。止めようとしたけど、尿の放出は止まらなかった。小さな息子のズック靴に父親のおしっこが溜まってくのをぼんやり眺めていました。

もううんざり、しばらく家を出ていってほしい。涙声で、妻にそう言われました。

翌日から、電車で数十分ほどの場所にある両親の家に住まわせてもらうことにしました。40代の初め頃の話です。

その日以来、10年以上、私は一滴も酒を呑んでいません。徐々に減らしていくとか、そういうことではありません。とにかく一切呑んでいない。自分の意志の弱さは、自分自身が一番知っているから、とにかく呑まない。一滴でも入ると、とたんにそっち側にスリップする。私はそういう人間です。

【図表】人生の転機 酒と決別するまで
末並俊司『マイホーム山谷』(小学館)
東京・山谷で民間ホスピス「きぼうのいえ」を創設した山本雅基氏と妻・美恵さんは、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で特集されるなど注目を集めた。ところがその放送翌日に妻は姿を消し──。

酒は呑んでいる間だけが酒の時間ではありません。呑む前からソワソワし、作業もいい加減になる。呑んだ翌日の午前中は宿酔ふつかよいで使いものにならない。そんな時間をすべて仕事に充てるようになった。体感では、酒をやめる前の2倍くらい、仕事の時間が増えました。

呑んでいた頃は、うまくいかないことがあると酒に逃げていたのですが、酒をやめてからは、“うまくいかないこと”は、チャンスの裏返しであることに気づきました。私がうまくやれないことは、他のひとにも、うまくやれないことが多い。その原因を探り、対処することで、仕事は完遂します。

そんなことを繰り返しているうちに、だんだんと安定していき、やっと普通のお父さんくらいの収入を得ることができるようになった。息子を大学に通わせることもできました。入学のときには「お父さん、ありがとう」なんて言ってくれたりもした。

呑んでいた頃の仲間たちとは疎遠になりましたが、痛くも痒くもありません。「いつか、でっかいことをやろう」「誰もが驚くような作品のために一緒に何か始めよう」なんて、酒の席で盛り上がった計画で、実現したものはなにひとつありません。私にとって、酒は百害あって一利もなかった。

散々酒の悪口を言ってきましたが、私は今でも、たぶん酒が嫌いではありません。最後の晩餐のテーブルには温燗のお銚子を置きたいと思っています。でもすべてが夢になるといけないから。今はまだ、絶対に呑みません。

※本稿は、雑誌『プレジデント』(2026年6月12日号)の一部を再編集したものです。

(撮影=藤中一平)