※本稿は、渡邊大門『豊臣秀吉と秀長 天下取り兄弟の真実』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「温厚な天下人」は虚像
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、青少年期の秀吉・秀長兄弟が、逆境の中でも力強く生き抜く姿が描かれている。これまでの豊臣秀吉といえば、明るくひょうきんな人物像が強調されることが多かった。しかし近年の大河ドラマでは、秀吉が持っていた冷酷で苛烈な一面にも光が当てられるようになった。本稿では、その一例として、秀吉が行ったとされる残酷な処罰の事例を取り上げてみたい。
秀吉を揶揄した「落書き」事件
秀吉は、自身や政権を揶揄する行為を決して看過しなかった。天正17年(1589)2月、聚楽第南側の鉄門に、秀吉を揶揄する「落書き」が貼り出される事件が起こる。落書きの具体的な内容は一次史料には残されていないが、当時の落書きとは、匿名で人目につく場所に政治風刺や批判、揶揄を内容とする文書を掲示する行為を指していた。
落書きを知った秀吉は激怒したものの、犯人を特定することはできなかった。そこで秀吉は、警備に不備があったとして門番衆17人の責任を問い、死罪を命じる。その刑罰は、初日に鼻を削ぎ、翌日に耳を削ぎ、三日目に逆さ磔とするという、常軌を逸した極めて残酷なものであった。
門番衆に直接の落ち度があったわけではない。それでもこのような刑が科された背景には、秀吉の怒りの激しさがあったと考えられる。その後も秀吉は執拗に犯人捜しを続け、その結果、尾藤道休という人物が容疑者として浮上する。ただし、道休は来歴などが不明な人物であった。
やがて道休が天満の本願寺に逃げ込んだとの情報が入り、秀吉は顕如に身柄の引き渡しを要求する。命を受けた石田三成と増田長盛が本願寺に赴くと、願得寺顕悟という僧侶が、落書きに関与したと思われる牢人をほかにも匿っていたことが判明した。いわば芋づる式に関係者が次々と明らかになったのである。
京都六条河原で磔刑
顕如はただちに道休と顕悟に切腹を命じ、その首を秀吉に差し出した。しかし、これでも秀吉の怒りは収まらなかった。秀吉は両者の屋敷を破却し、さらに寺内町を焼き討ちにして、関係者を次々と捕縛していく。
同年3月9日、道休の妻子を含む63人が、犯人を匿った罪で京都へ連行された。このうち3人は切腹を命じられ、残る60人は六条河原で磔刑に処されている。処刑された中には子どもや高齢者も含まれており、年齢や性別を問わない苛烈な処罰であった。
天下人となった秀吉は、自身や政権を嘲笑されることを決して許さなかった。落書きという匿名の批判に対しても、徹底的に犯人を追及し、過酷な処罰を加えたのは、人々に強烈な恐怖と服従を植え付けるためだったと考えられる。
石川五右衛門の釜茹で
秀吉が見せしめにしたのは、盗賊らに対しても同じだった。中でも石川五右衛門を釜茹でにしたことは有名である。釜茹でとは、文字どおり釜に水あるいは油を入れて煮立たせ、その中に人を放り込んで殺す刑罰である。
石川五右衛門といえば、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎でも演じられ、人々に広く知られるようになった大泥棒である。架空の人物のように思われているが、実在したことが明らかにされている。ただし、大泥棒だけに、五右衛門の生年や出自は不明な点が多い。
『鹿苑日録』文禄3年(1594)8月23日条の記事には、京都の三条橋の下で、十人の罪人が釜茹でにされたと書かれている。『言経卿記』同年8月24日条の記事にも、京都の三条橋南の河原において、盗人、スリ10人と子供1人が釜茹でにされたと記されている。さらに、首謀者の仲間19人は、同じ場所で磔にされたという。その際、多くの見物人が集まったのである。



