ぶらさがるために「賢さ」を使う

いま世の中で大きな注目を集めている社会保障費の天文学的増大、離婚ビジネスと化している一部の弁護士業界、政治や行政に食い込んで公金を掠め取るような非営利団体などはまさに、人間社会の技術の爆発的進歩が落ち着き、行き場を失ってしまったそこそこの知性たちの生み出した徒花あだばなである。

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100年前であれば、その知的創造性によって人間社会の景色にドラスティックな変化をもたらす立役者のひとりになれたかもしれない人びとは、21世紀にはそのような役割をすっかり得られなくなった。その代わり、大企業にせよ国にせよとにかく大きな予算規模を持つ者にぶら下がる形で細々としのぎを得るモデルやスキームを構築することに自身の賢さを活かすようになっていった。

今や「突出した才能」を阻害する存在に

それを責めているわけではない。そこそこの秀才では人間社会の大きな変化をもたらすことができなくなった状況では、そうするのが合理的だ。しかしながら、そういう癒着的方略で食い扶持を得る人が増えれば増えるほど、「自分の安堵している構造が変わってしまうこと」をきらって、本当に人間社会を変えうる突出した才能をもった後進が現れたときにも、その才能を潰してしまう方向に動くようにもなってしまった。

たとえばライブドア事件はその象徴だったようにも見える。あの事件は世間的には「保守的な長老たちが、頭角を現した若い才能を潰した」という筋書きで解釈されがちだが、私の見立ては異なっている。人間社会の劇的な技術革新にはまったく貢献できなくなったエリートがもうすでに世の中にたくさん増えてしまったことのひとつの結果だったと解釈すべきだ。

皮肉としか言いようがないが、かつて人間社会を大きく変化させてきた知的創造性にすぐれた人たちは、その変化速度が頭打ちになるにつれ、「変化しないこと」にインセンティブを見出すような生き方に変わっていった。既得権を守る形で自身の知的能力を発揮してきた人たちからすれば、進歩にプラトーの兆しが見える現代社会で、世の中の利益構造を変えてしまいうるほどに大きな才能を持つ人はもはや邪魔な存在なのである。