集中なくして記憶はできない
ビジネスシーンや勉強の場で重要とされる力のひとつに、「集中力」があります。ただ、その定義については意外に曖昧かもしれません。「集中力の定義とは?」と問われたなら、人それぞれ様々な回答が返ってくるのではないでしょうか。わたしなりの集中力の定義はというと、「ノイズを排除してひとつのことに意識をフォーカスする力」です。
そして、この集中力は、ほぼ記憶力といっていいとわたしは考えます。なぜなら、ものごとをしっかり記憶しようと思えば、記憶の仕組みからいっても「きちんと覚えよう」という意志――つまり「やる気」が不可欠だからです。
心理学においては、情報を覚える「記銘」、情報を覚えておく「保持」、情報を思い出す「想起」という3つの段階を経たものが、「記憶」と呼ばれます。
ところが、「自分は記憶するのが苦手で……」という人の多くは、記銘をおろそかにしているようです。「どうせ覚えられない」という気持ちから「きちんと覚えよう」としていないため、そもそも記銘できません。最初の記銘ができていないのですから、その後の保持も想起もできず、結果として「記憶できない」ということになります。だからこそ、しっかり記憶するためには、「きちんと覚えよう」というやる気が欠かせないのです。
では、そのやる気とはなにかといえば、やはり集中力なのだとわたしは捉えています。「きちんと覚えよう」というやる気を持って覚えようとするときには、集中力のスイッチも同時に入っているはずです。集中できていないのに、「よし、覚えるぞ!」というやる気を持てているはずもありません。
集中力の重要性を痛感させられた苦い経験
「記憶力≒集中力」という考えを持つに至った背景には、わたし自身の経験があります。記憶力日本選手権大会にはじめて出場して優勝したのは、2013年の2月。その半年後の8月に出場したオーストラリアの大会でも優勝を果たし、競技者としてまさに順風満帆の滑り出しでした。
そして、同じ年の12月にロンドンで行われる世界記憶力選手権に出場しようと思ったのですが、オーストラリアの大会から期間が空いているということで、調整を兼ねて9月に香港で行われた大会に出場したのです。
当時のわたしは、日本とオーストラリアの大会で続けて優勝して自信満々です。ところが、結果は大失敗に終わってしまいました。理由は明白です。まさしく、集中力が削がれてしまったからです。
それまでの日本やオーストラリアの大会ではなかったことなのですが、香港の大会の最中に、小さな不安の種のようなものが頭のなかに突然浮かびました。それに対する意識を引き戻し、覚えるべきことに向けられればよかったのですが、そうはできずに意識は不安に執着し続けます。そうしてその不安はどんどん大きくなり、さらに執着してしまうという負のサイクルに陥り大惨敗を喫したのです。
そのときは、わたしなりの集中力の定義からいえば、ノイズを排除するどころか不安というノイズに執着し続けてしまい、覚えるべきことに意識をフォーカスすることができませんでした。完全に集中力を欠いた状態だったのです。
そして、「集中できるかどうかがこんなにも記憶力を左右するのか」と大きなショックを受け、記憶にとっての集中力の重要性を痛感しました。
スポーツ選手のように、集中する「ルーティン」をつくる
そうしてわたしは、記憶力のみならず集中力を高める方法についても研究を重ねます。そうしてたどり着いた集中力を高める方法の一部を紹介しましょう。これらは、仕事や勉強などに集中したいときはもちろん、その延長としてなにかをしっかり記憶したいときにも大いに役立ってくれますから、ぜひ習慣化してほしいと思います。
まず紹介するのが、「集中力が高い状態でスタートを切るルーティンをつくる」というもの。なにかを覚える、仕事や勉強に臨むといったときには、最初から集中力が高い状態ではじめられるのがベストです。
そのために有効なのが、ルーティンです。スポーツ選手が重要な場面で集中するために決まったルーティンをこなすこともよく知られています。スポーツ選手たちは毎回決まったルーティンをこなすことで、「これをやったら自動的に集中力が高まる」という回路のようなものを自分のなかでつくっていて、その有効性は心理学的にもあきらかになっています。
では、どんなルーティンがいいのでしょうか? わたしからは、以下のようなものをおすすめします。
まず行うのは、ポジティブな言葉を声に出すということ。言葉を話すときは脳のなかの運動性言語野という場所が働きます。「話す」ことは運動、つまり体を動かすことでもあります。体を動かすと脳の側坐核という部位が活性化してやる気が高まってきます。
ですから、「これから集中するぞ!」「はじめから乗っていくぞ!」といったポジティブな言葉を発することで、心身ともに集中モードに入っていけるようになります。
続いて、やる気が出るイメージを思い浮かべます。スポーツ心理学の研究では、その映像をイメージすると、リラックスできたりやる気を引き起こしたりできる「イメージバンク」というものをつくることが好成績につながることがわかっています。もちろん、その手段が有効なのはスポーツに限りませんし、思い浮かべるイメージはこれから自分がとりかかる仕事や勉強に直接的にかかわることでなくとも構いません。好きな歌手のイメージ、自分が全速力で気持ちよく走っているイメージなど、やる気が刺激されさえすればなんでもいいのです。
最後に、決まった動作をしてから作業をはじめます。毎回同じ動作を繰り返すことで、それを脳が「集中スタートのスイッチ」だと認識するようになっていきます。これも、毎回同じでさえあればなんでも構いません。わたしの場合は、周囲の音を低減する機能がついた密閉式のヘッドホンをつけることがこれにあたります。
信念に基づき感謝を示す「呪文」が、それた意識を引き戻す
次に紹介するのが、「それた意識を自分に引き戻す呪文をつくる」というものです。わたしが香港の大会で不安に執着してしまったように、フォーカスすべきこととは別のことに意識がとらわれてしまったようなケースに有効です。
ふだんから、自転車の車輪の中心にあるハブのように、「これが自分の意識の『軸』だ」といえるものを持っている人はあまりいないはずです。そこで、確固たる意識の軸があれば、それた意識を引き戻す場所になり得るのではないかとわたしは考えました。
どうすれば意識の軸をつくれるでしょうか? わたしが考えたのは、「呪文のように、短い文を声に出して繰り返し読む」ことでした。あえて声に出すのは、頭のなかに文を思い浮かべるだけでは、他の思考に紛れてしまって注力しにくくなるからです。
では、どんな呪文を設定すべきか。これについては、ハーバード・メディカルスクールによる、「その人の信念に基づいた言葉を繰り返し声に出すことで血圧と心拍数が低下し、ストレスをより早く下げることができるうえ、仕事の生産性や創造性も高められる」という研究結果がヒントになりました。
また、別の研究により、感謝の気持ちを持つと、幸福ホルモンと呼ばれるセロトニンという神経伝達物質が脳内に分泌されることも知られています。強い幸福感を得られれば、不安のようなノイズに執着してしまうことも避けられるはずです。
よって、「自分の信念に基づいた言葉」「感謝を示す言葉」のどちらかにあてはまる言葉が適しているというのが、わたしの結論です。神様を信じている人なら「神様ありがとうございます」、なにかを成し遂げたいという強い信念を持っている人なら「わたしは○○ができる!」でもいいですし、単に「ありがとう」など感謝を示す言葉でも十分です。
この習慣を続けるうち、わたし自身の集中力は確実に高まったと実感していますし、記憶しようとするタイミングに限らず、なんらかの不安を覚えたり緊張していたりするときにも、この呪文をつぶやくことでネガティブな感情を手放すこともできています。


