「わたしは記憶するのが苦手だ」――。そんな悩みを抱えている人は少なくないはずですが、それは当然なのかもしれません。なぜなら、「脳はそもそも、ものごとを忘れていくようにできている」からです。記憶のスペシャリストが、脳の記憶と忘却のメカニズムと併せて、意外にも「忘れることの重要性」についても解説してくれます。

脳はそもそも、「なるべくものごとを覚えたくない」

脳はものごとを覚えてくれる器官であると同時に、「ものごとをなるべく覚えたくない器官」でもあります。実のところ、「脳はそもそも、ものごとを忘れていくようにできている器官」なのです。

このことは、脳の仕組みを知れば理解できます。脳は、体全体に占める重量の割合としてはわずか2%程度とかなり小さな器官です。ところが、脳が消費するエネルギーは、体全体が消費するエネルギーの約25%にもなります。体全体の消費エネルギーの実に4分の1を消費してしまう、非常に燃費が悪い器官が脳というわけです。

それに、脳の容量ももちろん限られています。一説によれば、わたしたちが見たり聞いたりしたもの、においや体感といった感覚器官から入ってくるすべての情報をそのまま記憶できるとしたら、ほんの数分で脳はパンクしてしまうといわれています。

だからこそ脳は、「なるべく覚えない」という仕組みになっているのです。なんでもかんでも覚えてしまうと、ただでさえ大きな消費エネルギーがさらに膨大なものになりますし、あっという間に脳のいま使える容量を使い切ってしまいます。

脳が消費エネルギーを抑えるようにできているのは、おそらく生存のためだったのでしょう。脳のメインのエネルギー源はブドウ糖です。飽食とか過食の時代ともいわれるいまは、飢餓に苦しんでいる地域に住んでいないのであれば、ブドウ糖が含まれる食べ物に困るということはありません。

しかし、人類の長い歴史には、安定して食べ物を確保できるとは限らない時代もありました。そこで、貴重なエネルギーを過剰に消費してしまわぬよう、脳のデフォルトの状態が省エネモードになったのでしょう。

記憶の鍵を握る門番、「海馬」の存在

しかし、いかに脳が「なるべくものごとを覚えたくない器官」だとはいっても、「きちんと覚えたいこともある」というのがわたしたち人間の思いです。記憶が仕事にも大きくかかわる社会人であればなおさらです。

脳の本来の性質を覆してものごとを覚えるためには、記憶の仕組みを知る必要があります。記憶の分類には様々なものがありますが、「短期記憶」「長期記憶」というのもそのひとつです。

短期記憶は、数秒から数分という、文字どおり短期間で消えていく記憶のこと。それに対して長期記憶は、試験のために頭に入れておきたい記憶や思い出として残っている記憶など、1時間から長いものでは一生覚えていられるような記憶を指します。

ただ、短期記憶と長期記憶の2種類あるといっても、その出発点は同じです。頭のなかに入ってきた瞬間の記憶は、すべて短期記憶のかたちです。それが短期記憶として消えていくものと、長期記憶として残るものに分類されるのです。

では、頭に入った情報は、それらふたつの記憶にどのようにわけられるのでしょうか? 鍵を握っているのは脳の「海馬」で、脳のなかの「司令塔」「中枢部」と呼ばれる部分です。記憶に携わる場面でいうと、「門番」といった表現だとイメージしやすいかもしれません。

短期記憶はいったん海馬に入ってきます。そのとき海馬が、「この情報は重要ではない」と判断した短期記憶はそのまま消えて、「この情報は重要だ」と判断した短期記憶が長期記憶として残されるのです。

脳の「忘れる」特性を利用して記憶するための方法

つまり、勉強や仕事に必要なことを覚えて長期記憶にしようと思えば、門番である海馬に「この情報は重要だぞ」と判断させる必要があるということです。

そうするためのキーワードは大きく3つ。ひとつは「意志」です。特に記憶に苦手意識を持っている人は、「どうせ自分には覚えられない」と思っていることもあり、覚えようとする強い意志を持っていないことが多いのです。覚えようとする意志は、記憶のスイッチを入れるために絶対不可欠です。

次に「復習」です。自分が門番になったつもりでイメージしてみてください。何度も何度も自分のもとを訪ねてくる人に対しては、「もしかしたらこの人は重要人物かもしれない」と思えてくるかもしれませんよね。復習することで、何度も海馬のもとに送り込まれた情報は、そのようなかたちで長期記憶になりやすくなります。

最後のキーワードが「感情」です。海馬があるのは、脳の「大脳辺縁系」というエリア。ここは、感情や情動に関係するエリアであり、先ほど触れた意志ややる気も含めた感情は、記憶と非常に密接な関係にあります。

そして海馬は、「扁桃体」という部分にぴったりと寄り添うように存在しています。この扁桃体が、実は喜怒哀楽が生まれる場所とされています。なんらかの感情が生まれると扁桃体が活性化し、その扁桃体に密接しているためにその刺激が届く海馬も活性化します。そのため、感情を伴った短期記憶に対して「重要だ」と海馬は判断するのです。

つまり、たとえ意図的だったとしても、覚えたいことがあるときにはなんらかの感情とセットで覚えようとすれば、脳は長期記憶として残してくれやすくなるのです。

ただ、このことについてはわざわざ脳の仕組みを知るまでもないかもしれません。先に、「記憶のスイッチを入れるために意志が絶対不可欠」と書きましたが、嬉しい、楽しいなど強い感情を伴う出来事については、「覚えておこう」などと思うまでもなく覚えているものです。逆にいうと、それだけ感情と記憶が密接に関係していることの証しともいえます。

「頭のなかを整理する」ために、「忘れる技術」も必要

そのような強い感情を伴った思い出は強烈に脳に残るものですが、それらはポジティブなものばかりではありません。悔しい、恥ずかしいといった感情から生まれたネガティブな思い出は、誰しもが持っているでしょう。それらのなかには、忘れたいのに忘れられないこともあるはずです。

そういう点でいえば、「覚える技術」と同じように「忘れる技術」を身につけることも大切かもしれません。

最初にお伝えしたように、「脳はそもそも、ものごとを忘れていくようにできている器官」です。そのようにできているのは、消費エネルギーを抑えたり、脳をパンクさせないようにしたりするためばかりではないように思います。

忘れることの重要性は、忘れたいネガティブな思い出を忘れることのほかにもあるとわたしは考えています。社会人にとっての重要性ということなら、「頭のなかを整理する」ということも挙げられるでしょう。

インターネットが浸透した現代社会は、情報過多社会ともいわれます。そんなときに、なんらかのデータといった定量的な数値や情報をそのまま覚えておくことにはそこまで意味がありません。なぜなら、パソコンやスマホでいつでも確認できるからです。

そうではなく、心理学的に「スキーマ」と呼ばれる、仕事のアイデアや自分なりの考えといった新しいものを生むために力を発揮してくれる思考のフレームを理解し、記憶し、そして使えることがより重要です。

ところが、この情報過多社会のなかでどんどん情報を頭に入れて、それこそ忘れられなかったとしたらどうなるでしょうか? 新たなスキーマを覚えることもできなければ、頭のなかがごちゃごちゃの状態になって、よりよい思考をすることが困難になります。そういった意味からも、忘れることには大きな重要性があるのです。

(構成=岩川悟、清家茂樹 図版作成=木村友彦 撮影=玉井美世子)