※本稿は、川端美季『風呂と愛国 「清潔な国民」はいかに生まれたか』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
“江戸期の健康法”と西洋医学が融合
江戸期には熱い湯に入ることが体内の気の流れを乱すものとして養生書のなかで注意されていた。それでは、明治期になると入浴にはどのような注意が向けられるようになったのか。
明治初期には、医師たちによって医療としての入浴が紹介されたり、どのような入浴方法が身体に適しているかが説明されるようになった。たとえば、1871(明治4)年に刊行された石黒忠悳の『医事鈔』がある(*1)。
石黒は1871年から陸軍医を務め、1890(明治23)年には陸軍軍医総監となった人物である。『医事鈔』では治療として湯を浴びることを「浴法」と記した。浴法の種類として「手浴、脚湯、上肢浴、坐浴、全身浴、硫黄浴」が挙げられ(*2)、これらは治療であるため、病気の症状によって浴法の適温が異なるとされた。
これまでの熱い湯に入ることへの注意が、温度という数値、かつ科学的指標によって具体的に示されたのである。
また1873(明治6)年に出版された、松寿主人による『開知日用便覧初編』では「浴湯」という表記で入浴が取り上げられた。このなかでは、具体的な温度が示されて熱い湯に入ることが注意された。さらに、身体に垢をためないようにすることが病を避けるために重要だとも記されている(*3)。
温度を示しての入浴への注意は、江戸期から継続した関心と、西洋近代医学の受容という両側面が融合したものといえるかもしれない。
(注)
(*1)石黒忠悳『医事鈔』東京府書籍館、1871年、12―14頁
(*2)入浴方法を分類する記述はこの後も見られる。たとえば1891(明治24)年に出版された中原恭弥による『医家宝典』の「人工浴」という章のなかで、治療としての入浴方法が説明されている。最初に「浴湯トハ全身或ハ身体ノ一部ヲ洗浴スル(中略)其効用ヲ概論スレハ身体ノ皮膚ニ附着セル汚垢ヲ洗除シ以テ皮膚ノ新陳代謝機能ヲ催進シ疾病ヲ治療スルニアリ」として、入浴の意義とその効能が説かれたうえで、「寒浴(摂氏18.75度以下)」「冷浴(摂氏18.75―20.75度)」「微温浴(摂氏20.75度―33.75度)」「温浴(摂氏33.75度―40度)」「熱浴(摂氏40度―43.75度)」と温度による入浴の区分がなされ、それぞれに適した入浴時間、治療効果のある病気が列挙された。そして温度による入浴の区分だけではなく、「熱水灌注法」「土耳其浴」などの入浴方法も紹介された。中原恭弥編『医家宝典』下巻、細謹舎、1891年、194―199頁
(*3)松寿主人編『開知日用便覧 初編』雁信閣、1873年、13―14頁。松寿主人は神奈川県会議員だった岡勘四郎のこと。