日本人の「入浴好き」は伝統的なものではない

同誌が初めて入浴について取り上げたのは、1884(明治17)年刊行の第14号である。柴田承桂しばたしょうけい(*6)による「第二総会海外衛生上景況ノ報道(前号ノつづき)」という記事であった。

このなかで、1883年にベルリンで開催された衛生博覧会の陳列物品のなかに「衣服およびヒ皮膚保護沐浴」という項目があったと紹介されている(*7)。明治前期に海外の衛生事情として入浴や浴場が取り上げられることはめずらしいことではなく(*8)、それが自国の入浴習慣をとらえなおすことにもつながっていた。では海外との比較のなかで、日本の入浴習慣はどのようにみなされるようになったのだろうか。

現代の日本人の多くは、海外に行き宿泊先にシャワールームしかないとき、風呂に入りたい(湯に浸かりたい)と思うのではないだろうか。宿泊施設の口コミサイトなどには、風呂に関するものも多い。こうした素朴な感覚にもとづいて、日本人は風呂や入浴が好きだとごく当たり前に認識されているかもしれない。

シャワー
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しかし、このような感覚は比較的新しいものである。明治20年頃までの『大日本私立衛生会雑誌』でも、欧米の知識や衛生習慣を紹介するのみで、この時点では日本人が入浴を好むという記述はみられない。

(注)
(*6)柴田承桂は薬学者であり、1874(明治7)年から1878(明治11)年にかけて東京医学校製薬学科の初代教授を務めた。1870(明治3)年にドイツに留学し、ベルリン大学でホフマンに有機化学を学び、ミュンヘン大学でペッテンコーフェルに衛生学を学んだ。1878年に東京医学校を退いた後は内務省御用掛となり、衛生行政の創設に貢献した。
(*7)「衣服及ヒ皮膚保護沐浴」の内容についてこの記事では言及されていない。また1894(明治27)年の『大日本私立衛生会雑誌』136号に「列国デモクラヒー会議」という記事が掲載された。この「会議部門」に「浴場衛生」があったと紹介されたが、その内容についても述べられていない。無記名「列国デモクラヒー会議」『大日本私立衛生会雑誌』第136号(1894年)
(*8)官僚や新聞記者などが渡欧の記録として入浴などについて書いたものには、1887(明治20)年に出版された『欧州之風俗 社会進化』がある。これは「郵便報知新聞」社員である森田思軒と吉田熹六が欧州や米国の訪問を記録したものであった。このなかに「湯屋の有様の事」「初旅の西洋浴室」という章がある。イギリスやフランスの「湯屋」や浴室について詳細に記録がのこされている。森田思軒・吉田熹六『欧州之風俗 社会進化』大庭和助刊、1887年、127―132、318―322頁

「欧米よりもスゴイ」という論調

変化が生じるのは明治30年代に入ってからである。1897年刊行の第172号に、「沐浴の沿革および其衛生上の必要」という記事(無記名)がある。記事は次のように始まる(*9)

我那わがくににては古来沐浴の美風ありて下等社会といえどおおむね毎月数回入浴せざるなし、これに反して欧州諸国にては下等社会は勿論もちろん上流社会にても日常入浴することはまれなり、されども入浴の衛生上必要なるは争ふべからざる所なるを以て近来公衆衛生の発達と共に浴場の設置せらるるもの多し、近着の欧字雑誌をけみするに彼地沐浴の沿革を叙し衛生上入浴の最も最も緊要なることを記せるものあり。

冒頭から、日本には古くから「沐浴」という美しい風習(風俗)があるという記述である。「これに反して」欧州諸国はそうではない、どんな階級の人も入浴することはまれであると、明確に日本と欧米を比較している。一方で、「欧州諸国」では入浴が衛生上必要であり、浴場が設置されつつある(*10)と述べている。つまり日本の「美風」は、欧米諸国と比較して示されているのだ。

(注)
(*9)無記名「沐浴の沿革及其衛生上の必要」『大日本私立衛生会雑誌』172号、1897年、716頁
(*10)19世紀のフランスでは温かい湯に入ることが病気を予防するとされ、そのための施設として公衆浴場があげられた。皮膚を清潔にすることが身体内に潜む力を活発にするとされ、身体の一部分でもあることが求められるようになった。1890年代になると伝染病は細菌説の影響を受けた。腸チフス、結核、コレラ、ジフテリア、ペストなどの病原菌が汚れた皮膚に潜んでいるとされ、不潔な個人は潜在的に病気を運ぶと見なされるようになった。G・ヴィガレロ著、見市雅俊監訳『清潔になる〈私〉 身体管理の文化誌』同文館出版、1994年、232―233頁