1868年1月、江戸幕府に代わり明治政府が発足した。薩摩・長州両藩出身の官僚層は、矢継ぎ早に新たな政策を立案、推進していった。歴史評論家の香原斗志さんは「日本を近代化したという点では評価できるが、無教養ゆえに生じた負の側面にも目を向けるべきだ」という――。
左から、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允
左から、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

一国の中心だったお城が存在意義を失った瞬間

他者からの援助や干渉を受けずに独立している人のことを、いつから「一国一城の主」と呼ぶようになったのかは知らないが、この言い回しの語源が、江戸時代の幕藩体制下において、一つの国、一つの城を領有している者、すなわち大名にあるのはまちがいない。

幕藩体制とは、江戸幕府と全国の300諸藩が全国を支配した政治支配体制のことで、幕府は全国の土地を直轄領と大名の領土に分け、大名にはその領土を支配し管理する権限をあたえた。大名の領土および統治機構が藩で、一部の例外を除き、統治の拠点が城だった。

したがって、明治2年(1869)6月、明治新政府が全国の大名に土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させる「版籍奉還」を命じると、城は存在意義を失うことになった。このとき藩主は大名、つまり領主ではなくなり、政府の一官吏である藩知事となった。むろん藩士も藩主との主従関係も解かれ、たんに藩に属する士族となった。

とはいえ城には、各藩の軍事施設としての意義が辛うじて残っていた。また、旧藩の組織が解体されたわけではなかったので、多くの藩では城をそのまま役所として使っていた。

福沢諭吉の申し出で廃城になった城

ただ、多くの城は面積が広大で、石垣や土塁、堀だけでも監理が大変なところに、数々の建造物が建ち並んでいたため、農民からの年貢収入が得られなくなると、維持するのが困難になった。このため、城の取り壊しを申し出る藩も現れた。

明治3年(1870)閏10月、旧藩主で藩知事になっていた大久保忠良は、幕末にも大地震による石垣や建造物の損壊に見舞われた小田原城(神奈川県小田原市)の廃城を、新政府に願い出て認められている。中津城(大分県中津市)も同年12月、中津藩士だった福沢諭吉が「無用」の城を「廃城」にすべきだと届け出た結果、御殿以外の建造物は取り壊された。

それだけではない。驚くべきことに、天下の名城と謳われた名古屋城(名古屋市中区)と熊本城(熊本市中央区)も、藩知事が太政官に取り壊しを願い出ていたのである(このときは取り壊しを免れたが)。

しかし、明治4年(1871)に断行された「廃藩置県」は、「版籍奉還」とは違う次元で全国の城にダメージをあたえた。それは城への死刑判決に近かった。藩自体がなくなってしまい、旧藩知事は東京への移住を義務づけられ、各地で城を維持していた組織そのものが消滅してしまった。