徳川家康が建てた江戸城とはどんな姿だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「かつて日本に築かれた城の中で、圧倒的に巨大だった。だが、その象徴ともいえるべき天守は、わずか15年しか存在しなかった」という――。

日本に存在した城の中でけた違いに大きかった江戸城

日本に存在した城の数は3万とも4万ともいわれるが、そのなかで江戸城(東京都千代田区ほか)はけた違いに大きかった。内郭、つまり内堀の周囲だけで約7.85キロ、面積が424.8ヘクタールもあった。外郭、すなわち外堀の周囲となると約15.7キロで、面積は約2082ヘクタール。ざっと東京ドーム450個分の広さになる。

「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守
「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守。家康が建てた天守とは異なる(画像=http://www.rekihaku.ac.jp/e_gallery/edozu/l12.html/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この日本史上において圧倒的に巨大な城は、天下普請で築かれた。「普請」とは土木工事のことで、「天下普請」とは全国の諸大名に命じ、費用から実際の工事まで諸大名に負わせることを意味する。徳川幕府に集中した権力がいかに強大だったか、ということである。

ただし、こうした工事は一気に行われたわけではなかった。

徳川家康が江戸に入城したのは、滅ぼされた北条氏の領土に移封になった天正18年(1590)の夏。すでに江戸には、15世紀に太田道灌が築き、のちに北条氏が整備した城があったが、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や豊臣秀吉の大坂城(大阪市中央区)など、天下人の城を見てきた家康にとっては、貧弱なものだった。

しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に勝つまでは、家康は豊臣政権下の一大名にすぎなかった。だから、しばらくは秀吉から要らぬ嫌疑をかけられないように、江戸城の改修は最小限にとどめていた。