息子・秀忠すら威圧した天守
このように家光の天守は、豪華絢爛たる外観だったが、天守台に小天守台が付属しているものの、小天守は建たない独立式だった。したがって、家康の天守にくらべると、かなりシンプルで、大天守に近づくのが困難な造りではなかった。
また、石落としはなく、鉄砲狭間も少なくとも外部からは見えなかった。それは泰平の世を前提に、実戦を考えるよりも、規模と豪華さで諸大名を威圧する天守だった。しかし、この天守も、完成して20年にも満たない明暦3年(1657)、江戸の3分の2を焼き尽くした大火の際、防火性能が高い黒チャン塗りの銅板で守られていながら、開いていた窓から火の粉が入って呆気なく焼失。その後、江戸城に天守が建てられることはなかった。
現在、一部で復元が検討されているのは、この家光の天守である。だが、いま旧本丸にある天守台は、この天守の焼失後にあらたに積まれたもので、家光の天守の天守台にくらべて高さも2メートルほど低い。その事実もふくめ、再建には困難がともなう。
それはともかく、史上最強の天守は、家康が建てた慶長期の江戸城天守だったかもしれない。史上最大規模の大天守の周りを、ほかの城の天守より大きな3重の小天守3棟が囲んだ雄姿。あまりの規模に、全国の大名を威圧する効果があったのはまちがいないが、息子の秀忠までが父の存在の大きさに圧されて、この天守を取り壊したくなった――。そんな想像もしてしまう。