姫路城のような姿で、豊臣大坂城天守より高い

幕府大工頭の中井家に伝わった「建地割図」によれば、家康の天守は1階の大きさが18間(約38メートル)×16間(34メートル)で、これは豊臣大坂城天守の1階平面の2倍以上になる。また、高さは木造部分だけで16丈(約48メートル)で、天守台の石垣を加えると約20丈(約60メートル)にもなったという。天守台を入れて40メートル程度だった豊臣大坂城天守をはるかに上回る規模だった。

家康の天守について『慶長見聞集』には、「殿主は、雲井にそびえておびたゞしく、なまりかはらをふき給へば、雪山の如し」と記されている。壁面は白漆喰の総塗籠で、屋根には木の型に鉛の板を張った鉛瓦が葺かれたため、雪山のように白かったというのだ。

5年後の慶長17年(1612)に、家康の意向で建てられた名古屋城天守もそうだが、黒かった豊臣系の天守に対し、純白を採用して「刷新感」をねらったものと思われる。

だが、家康の天守はただ大きいだけではなかった。平成29年(2017)に発見された「江戸始図」等から見出せるのは、姫路城天守のように3つの小天守と渡櫓で結ばれた連立式天守で、しかも、付属する枡形を通り抜けないと天守に近づけない。要は、実戦に供し、万一のときには最後の砦になるように設計されていたのだ。しかも、この規模で姫路城のような連立式だったのだから、どれほどのスケールだったか、もはや想像を超えている。

姫路城
写真=iStock.com/SeanPavonePhoto
姫路城。

家康、秀忠、家光それぞれの天守

ところが、家康の没後6年ほど経って、秀忠は先述のように、これほどの天守をあっけなく解体してしまった。豊臣氏が滅んで、事実上、戦闘がなくなったいま、実戦的な機能を犠牲にしてでも、本丸御殿の政治的機能を拡大することのほうが重要だ――。そんな理由で、立ちはだかるように建つ巨大な天守を壊したものと思われる。

だが、江戸城から天守が失われたわけではなかった。秀忠はただちに、拡張された本丸の北方にあらたに天守を建てた。ところが、この天守も3代将軍家光が、完成して15年後に解体し、あたらしい天守が建て直されている。

秀忠の天守に関しては、規模や形状が明確ではないが、天守台は家光の天守と同じ場所にあった。また、両者は破風の形状や窓のかたちが若干違う点を除けば、とても似ていたという。家光は父である秀忠の天守を解体し、ふたたび組み上げながら多少のお色直しをしたということではないだろうか。

やはり5重5階の家光の天守は、1重目から上にいくにしたがって平面が規則正しく逓減する層塔型で、高さは木造部分が44.8メートルで、天守台の石垣を入れると58.6メートル。先に記した家康の天守の高さにおよばないが、家康の天守も、現実には家光の天守程度の高さだったのかもしれない。いずれにしても、家光の天守より高い天守がほかの城に建ったことはなかった。

外壁には、煤に松脂と油を混ぜて練った黒チャンが塗られた銅板が張られ、屋根は銅瓦で、最上階には金の鯱が載り、破風飾りなどは黄金で飾られていた。