なぜ現存する天守は12しかないのか。歴史評論家の香原斗志さんは「明治政府は、『城=陸軍の軍用財産』としか見ていなかった。それにそぐわない城は廃城となり、取り壊されていった」という――。

「坂の上の雲」の舞台・松山城が辿った数奇な運命

近代国家として歩みはじめ、日露戦争に勝つまでの明治日本を描いた司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』。それをNHKが映像化し、2009年11月から11年12月まで足かけ3年にわたって放送されたスペシャルドラマ「坂の上の雲」が再放送される。

ドラマの中心人物は秋山真之(本木雅弘)、秋山好古(阿部寛)、正岡子規(香川照之)の3人。それぞれ慶応4年(1868)、安政6年(1859)、慶応3年(1867)に、伊予国(愛媛県)の松山藩士の家に生まれ、秋山兄弟は軍人として、正岡は文学者として歩んだ。

そして秋山真之は、のちに連合艦隊先任参謀として、日露戦争における日本海海戦での勝利に貢献する。

ところで、3人が生まれたころ、戦争のための施設といえば城だった。実際、「広辞苑」で「城」を引くと、真っ先に「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」と書かれている。だが、明治政府が軍事力の強化を目指す中で、城の意味も価値もあり方も大きく変貌した。

3人が生まれた家の原点である松山藩の居城で、四国を代表する城でもある松山城(松山市)を中心に、九州を代表する城としての熊本城(熊本市中央区)も交えて、明治を迎えた日本において、城がどのように変貌したのかを見ていきたい。