西南政争に耐えた熊本城

軍事的な機能が維持された「存城」は、当然ながら、戦争の舞台となることが前提とされていた。その代表例が熊本城だった。

明治10年(1877)の西南戦争に際しては、熊本鎮台が置かれていた熊本城に政府軍が籠城。西郷隆盛に率いられ東京をめざす薩摩士族1万3000人を迎え撃った。その二百数十年前、関ヶ原合戦は終わってもふたたび天下の争乱が生じる可能性を考えた加藤清正が、高石垣を複雑に張りめぐらせ、常識はずれなほど堅固に築いたこの城は、50日を超える攻防戦で、敵兵を一歩も入れずに持ちこたえた。

田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍
田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍(画像=「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画、明治10年3月/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただ、攻防戦の前に不幸が生じた。籠城が決まった5日後の2月19日、本丸御殿の周辺から出火し、本丸御殿や大小天守のほか、五階櫓や三階櫓をはじめ多くの建造物が焼失してしまったのだ。

熊本城は明治21年(1888)、陸軍第6師団司令部が天守台に置かれ、大正6年(1917)には、第6師団司令部の新庁舎が落成するなど、その後も「存城」として機能し続けた。しかし、一方で、西南戦争の火災を免れた西竹之丸脇五階櫓や飯田丸三階櫓などの多くの建造物が、陸軍の手で順次、破壊されてしまった。「存城」であっても、貴重な歴史的建造物の価値は、まったく考慮されなかった。

公園になって破壊を免れた

熊本城は幸か不幸か、終戦まで「城」すなわち「軍事施設」としての機能を一部であれ維持した。だが、近代的な軍事組織を整備するなかで、「存城」とされた城が、次第に時代遅れと認識されるようになっていったのも事実である。

結果として、明治22年(1889)に存城のうち19城が、旧藩主および自治体に(静岡県葵区の駿府城のみ静岡市に)払い下げられている。これらのうち、山形城(山形県山形市)と高田城(新潟県上越市)、駿府城は、ふたたび兵営要地として陸軍省に献納されたが、残りの大半は旧藩主が自治体に譲渡し、公園となった。公園として整備するために、城の遺構が破壊されることもあったが、公園であるかぎり市街化される危険性はなかった。

一方、「廃城」となりながらも、早い時期に公園になったために破壊されずに済んだのが松山城だった。

実際、松山城は廃城に区分され、大蔵省の所管に移された。そうなった時点で、建物が競売にかけられたうえで払い下げられ、城としての景観を一気に失うケースが多かった。

だが、松山城が幸いしたのは、廃城となった翌明治7年(1874)、本丸と二の丸が愛媛県に払い下げられ、聚楽園と称される公園になったことだった。県が城地を一括管理したため、現存する天守をはじめ、数多くの建造物が残り、江戸時代の景観が一定程度たもたれたのである。