子規の俳句の世界がいまに残る
松山城はその後も紆余曲折があった。明治17年(1884)、山麓の二の丸と三の丸は遅ればせながら陸軍省の所管となり、事実上の「存城」となった。そして、外堀内側の三の丸は歩兵第22連隊の駐屯地となったため、明治20年(1987)に聚楽園は廃園となってしまった。だが、本丸は大正12年(1923)に旧藩主の久松家に払い下げられ、そのまま松山市に寄贈されたため、その後、放火や戦災による建造物の消失はあっても、良好な景観が維持されている。
ちなみに、松山城が陸軍省の所管になったころ、「坂の上の雲」の主役たちはみな東京にいた。秋山好古は陸軍大学校を卒業し(明治18年)、参謀本部に勤務しはじめていた。弟の真之も、大学予備門経由で海軍兵学校に入校(明治19年)。正岡子規も、大学予備門経由で帝国大学に入学していた(明治23年に哲学科に入学後、国文科に転科)。
だが、子規は明治24年(1891)に、離れた東京から「松山や 秋より高き 天守閣」の俳句を発表している。廃城となっても公園化によって天守の破壊も免れた。だから、子規はこの俳句を詠むことができたのである。
いずれにせよ、秋山兄弟が軍人としてキャリアを重ねた時代、軍に翻弄されたのが、元来が軍事施設でもある城だった。そんななか翻弄されながらも幸運の連鎖を重ね、正岡子規の俳句に詠んだ景観をいまも味わえるのが松山城である。