取り壊し願いを出された天下の名城

従来の城は、それまでの藩を廃して県を置き、薩長を中心とした政府を中央集権的な統一権力にした明治4年(1871)の廃藩置県によって価値を失った。だが、2年さかのぼる明治2年(1869)、大名が治めていた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させた版籍奉還を機に、城の維持が困難になる大名が現れていた。

大名の領土で、それを治める統治機構でもあり、一定の政治的および経済的独立性をたもっていた藩は、版籍奉還によってたんなる地方の統治組織になった。また、大名であった藩主は、政府の地方官である知藩事となった。結果、領土の防衛と統治のための施設である城は、存在意義を失った。

それだけではない。藩は領土から得られる独自の財源を失ったため、城の維持管理に多額の費用を投じることが困難になった。このため、城の取り壊しを願い出る藩も現れた。それも天下の名城と謳われた名古屋城(名古屋市中区)と熊本城で、知藩事が取り壊しを願い出たのは象徴的であった。

名古屋城はこの記事では割愛するとして、熊本城に関しては、明治3年(1870)に細川護久が知藩事に就任後、「熊本城ヲ廃堕シ以テ臣民一心ノ徴ヲ致シ且以テ無用ヲ省キ実備ヲ尽サン」という願書が太政官に提出されたのである。

しかも、この願書は許可されたのだが、結局、熊本城が「廃堕」されなかったのは、廃藩置県後に状況が変わったからだった。

「廃城」となった松山城

廃藩置県によって、各地で城郭を維持していた組織が消滅すると、維持管理する主体を失った城は荒廃していくしかなくなった。各地の城はいったん、兵部省陸軍部(改組後は陸軍省)の管轄下に置かれたが、当時、事実上の城である陣屋や要害を加えると、城は全国に300以上もあったから、陸軍省には到底管理しきれない。

そこで明治6年(1873)1月14日、明治政府は俗にいう「廃城令」を発した。それは2つの太政官達(太政官が交付した法令)のことを指した。すなわち、陸軍省に向けて発せられた「全国ノ城郭陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」と、大蔵省に向けて発せられた「全国ノ城郭陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」だった。

要するに、全国の城を陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分け、両省に通達したのである。

このとき「存城」とされた城は、領土を統治する機能は失いながら、軍事施設としては継続して使われることになったが、「存」という語は従来の施設を保存するという意味ではなかった。陸軍に必要なら、改変しても破壊しても構わなかった。一方、「廃城」となった城の多くは、建造物が次々と払い下げられ、堀は埋められ、石垣や土塁は撤去され、城地は次第に市街化していくケースが多かった。

ちなみに、熊本城は存城となったが、松山城は、江戸時代の景観が良好に残っている現況からは信じがたいが、廃城となってしまった。